今回のお参りは第三十三番札所、高福山・雪蹊寺です。
幹線道路からごく近い場所の立地であるこちらのお寺。
弘法大師さまによって開創された当初は『高福寺』と称したそうですが、
鎌倉期に活躍した仏師、運慶・湛慶親子の縁から『慶運寺』と改められ、
その後、こちらのお寺が菩提寺である戦国武将・長宗我部元親の号から、
現在の『雪蹊寺』となったそうです。
***********
長い歴史を持つお寺には、栄える時もあれば、苦難の時代も訪れます
そんな危機的状況に現れるのが、中興の祖と呼ばれる人物。
戦国時代、荒廃の極にあったこちらのお寺を、長宗我部元親の後援の下、
臨済宗の寺院として復興させたのが、月峰和尚です。
明治時代の廃仏毀釈から雪蹊寺を立ち直らせたのが、山本太玄和尚。
また、失明の危機の中、病気平癒を願い、四国を裸足で七回巡った後に、
その山本太玄和尚の「心眼を開け」との言葉に感動し、弟子入りしたのが
昭和期の傑僧、山本玄峰和尚です。
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小咄、凸凹同行記。
ごんた、『幽霊は実在するのか?』という事で悩んでいます
たけやんは「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という有名な一首を紹介して、
その人の後ろめたさや、良心の呵責から、ごくありふれた何でもない物が
全く別のものに見える事もある、と説明します。
実はごんた、「お遍路やめたい、やめたい」と思いながら歩いていると、
土産物屋の店先に、亡くなったはずの親父さんが、恐い顔で立っていて、
ごんたを睨みつけていた、との事
・・・でも、よくよく見れば、それはダルマの置き物だったそうです
心の歪みが、ダルマを親父さんに見せたのでしょう。
でも、執念、即ち、あまりにも強い思いを抱いたまま亡くなった人間は、
肉体は滅んでも、その霊魂は迷い続けるのかもしれません。
この雪蹊寺、寺運が衰え荒れ果てていた戦国時代、幽霊が出るという噂が
囁かれていました
そこに訪れたのが、月峰和尚。
村人が止めるのも聞かず寺に入ると、日暮れに女性の泣き声が・・・
よく聞くと、その声は同じ言葉を繰り返しています。
「水も浮き世という所かな」
それが和歌の下の句という事に気付いた月峰和尚。
翌日、再びお寺に入ると、
「墨染めを洗えば波も衣きて」
という上の句を加えて詠んだ所、以後、泣き声は聞こえなくなりました。
恐らく、上の句が出来ず、この世に思いを残したまま亡くなった人の霊が
成仏出来ず、彷徨っていたのでしょう。
尚、この出来事を聞いた戦国大名の長宗我部元親は、この荒れ寺の復興を
月峰和尚に託したそうです。
思いを残すより、目一杯生きて、納得し、胸を張って、笑って死ねたら
幽霊になるなどという事もないでしょう
***********
本堂の前に立って見渡すと、小じんまりとした中、諸堂がしっかりとした
まとまりを見せています。
観音堂にいらっしゃるのは、馬頭観音さま。
よく、野辺の石像として見かける仏さまです。
『観音さま』と聞いて、穏やかで優しいお姿を想像しがちになりますが、
この馬頭観音さまは、そのお名前が示す通り、頭に馬の首が立っている、
忿怒の形相の仏さま
農耕民族の我々日本人にとって、家畜は非常に大切な仲間でした。
そんな、家族同様の家畜が亡くなった際、成仏させるお役目を持つのが、
馬頭観音さまです。
また、馬の旺盛な食欲を象徴として、この馬頭観音さまは、人間の煩悩を
残らず食べ尽くして下さる、とも言われています。
***********
こちらの雪蹊寺、冒頭でも述べた通り、土佐の戦国武将・長宗我部氏から
手厚い保護を受けて、栄えました。
でも、過去の放送を聞いて頂ければお分かりの通り、この長宗我部氏とは
他国の札所を焼き討ちし、悪道・非道の限りを尽くした、あの一族。
そんな事を考えていると、お参りの際、少々複雑な思いが頭を過ると言う
こうゆうさんです
尚、寺号の『雪蹊』という言葉から、雪深い山奥の水墨画的なイメージを
浮かべがちですが、ここは雪とは無縁の南国・土佐
そんなギャップも、このお寺の持ち味と言えるかもしれません。
***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
幹線道路からごく近い場所の立地であるこちらのお寺。
弘法大師さまによって開創された当初は『高福寺』と称したそうですが、
鎌倉期に活躍した仏師、運慶・湛慶親子の縁から『慶運寺』と改められ、
その後、こちらのお寺が菩提寺である戦国武将・長宗我部元親の号から、
現在の『雪蹊寺』となったそうです。
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長い歴史を持つお寺には、栄える時もあれば、苦難の時代も訪れます
そんな危機的状況に現れるのが、中興の祖と呼ばれる人物。
戦国時代、荒廃の極にあったこちらのお寺を、長宗我部元親の後援の下、
臨済宗の寺院として復興させたのが、月峰和尚です。
明治時代の廃仏毀釈から雪蹊寺を立ち直らせたのが、山本太玄和尚。
また、失明の危機の中、病気平癒を願い、四国を裸足で七回巡った後に、
その山本太玄和尚の「心眼を開け」との言葉に感動し、弟子入りしたのが
昭和期の傑僧、山本玄峰和尚です。
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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小咄、凸凹同行記。
ごんた、『幽霊は実在するのか?』という事で悩んでいます
たけやんは「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という有名な一首を紹介して、
その人の後ろめたさや、良心の呵責から、ごくありふれた何でもない物が
全く別のものに見える事もある、と説明します。
実はごんた、「お遍路やめたい、やめたい」と思いながら歩いていると、
土産物屋の店先に、亡くなったはずの親父さんが、恐い顔で立っていて、
ごんたを睨みつけていた、との事
・・・でも、よくよく見れば、それはダルマの置き物だったそうです
心の歪みが、ダルマを親父さんに見せたのでしょう。
でも、執念、即ち、あまりにも強い思いを抱いたまま亡くなった人間は、
肉体は滅んでも、その霊魂は迷い続けるのかもしれません。
この雪蹊寺、寺運が衰え荒れ果てていた戦国時代、幽霊が出るという噂が
囁かれていました
そこに訪れたのが、月峰和尚。
村人が止めるのも聞かず寺に入ると、日暮れに女性の泣き声が・・・
よく聞くと、その声は同じ言葉を繰り返しています。
「水も浮き世という所かな」
それが和歌の下の句という事に気付いた月峰和尚。
翌日、再びお寺に入ると、
「墨染めを洗えば波も衣きて」
という上の句を加えて詠んだ所、以後、泣き声は聞こえなくなりました。
恐らく、上の句が出来ず、この世に思いを残したまま亡くなった人の霊が
成仏出来ず、彷徨っていたのでしょう。
尚、この出来事を聞いた戦国大名の長宗我部元親は、この荒れ寺の復興を
月峰和尚に託したそうです。
思いを残すより、目一杯生きて、納得し、胸を張って、笑って死ねたら
幽霊になるなどという事もないでしょう
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本堂の前に立って見渡すと、小じんまりとした中、諸堂がしっかりとした
まとまりを見せています。
観音堂にいらっしゃるのは、馬頭観音さま。
よく、野辺の石像として見かける仏さまです。
『観音さま』と聞いて、穏やかで優しいお姿を想像しがちになりますが、
この馬頭観音さまは、そのお名前が示す通り、頭に馬の首が立っている、
忿怒の形相の仏さま
農耕民族の我々日本人にとって、家畜は非常に大切な仲間でした。
そんな、家族同様の家畜が亡くなった際、成仏させるお役目を持つのが、
馬頭観音さまです。
また、馬の旺盛な食欲を象徴として、この馬頭観音さまは、人間の煩悩を
残らず食べ尽くして下さる、とも言われています。
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こちらの雪蹊寺、冒頭でも述べた通り、土佐の戦国武将・長宗我部氏から
手厚い保護を受けて、栄えました。
でも、過去の放送を聞いて頂ければお分かりの通り、この長宗我部氏とは
他国の札所を焼き討ちし、悪道・非道の限りを尽くした、あの一族。
そんな事を考えていると、お参りの際、少々複雑な思いが頭を過ると言う
こうゆうさんです
尚、寺号の『雪蹊』という言葉から、雪深い山奥の水墨画的なイメージを
浮かべがちですが、ここは雪とは無縁の南国・土佐
そんなギャップも、このお寺の持ち味と言えるかもしれません。
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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
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