今回のお参りは第四十一番札所、稲荷山・龍光寺です。
民家と土産物屋、うどん屋などが軒を連ねた、車一台がようやく通れる
細い参道の先にある、盆地に位置するこちらのお寺。
石段の下から見ると、向かって右側に大師堂、左に本堂、そして正面には
赤い鳥居の奥に稲荷神社のお社がある、変わった造りになっています。
***********
空海さまが、唐の国から密教を持ち帰られた当時。
伝えようとされた新しいみ教えが、どんなに素晴らしいものであっても、
旧来の考え・風習を守る側にとっては、やはり抵抗があります
古い教えを否定するのではなく、その利点を十分に理解し、敬意を払って
尊重しつつ、新しい密教を導入する事で、お互いを更に高め合える・・・
空海さまは、旧来の教えを否定するのではなく、共存共栄を念頭に置いて
苦労しながら、密教を広められましたが、この地を巡錫なさっていた時、
稲を背負った翁が現れ、み教えに感動して、
「仏法により、この地を守りたい」
・・・と言った、と伝えられています。
これに類する説話は、各地に伝わっており、出会うのが、ある時は美女、
またある時は大男だったりするのですが、それらの人物は、土地の神様が
人の形を借りて現われた姿だと考えられています。
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小咄、凸凹同行記。
柿のお接待に喜ぶごんたですが、二度と会う事のない自分に、どうして、
土地の人は親切にお接待してくれるのだろう?・・・と、不思議な様子。
たけやんによれば、かつてお大師さまは、色々な姿で歩いておられたので
土地の人々は、お大師さまをお接待したい一心で、巡礼されている人々に
色々と施しをする内に、お接待それ自体の素晴らしさ・喜びに目覚めた、
という事のようです。
だから、
「今後会う事のない人をお接待するのは『損』だ。」
・・・などといった、浅ましい考えはないわけです(笑)
四国は、罪を懺悔するために巡る、とも言われています。
懺悔し、心を美しく磨き上げて、功徳を積む。
『病は気から』という言葉もあるように、磨かれた美しい心を得る事は、
体と精神の安定をもたらします。
懺悔を『ふるまい・お接待』として表わすならば、お遍路を巡る側の人が
土地の人に施しながら歩くという事もあり得るわけで、事実、小豆島では
そのような形のお遍路が実在するそうです。
『施しながら歩く』という事に、ごんたは難色を示しているようですが、
施すのは、必ずしも『物』である必要はありません。
『心』・・・即ち、『皆の幸せを祈る気持ち』で良いのです。
功徳といえば、昔、施しをしながら遍路をしていた行者が、疲労のため、
お寺の境内で休んでいた時の事。
悪い龍が現れ、眠り込んでいるそのお遍路さんに襲いかかろうとした所、
腰の守り刀が勝手に抜けて、龍の目を刺し、退治しました。
何も知らないお遍路さん、足元に転がっている龍の目玉を洗ったところ、
突如として雨が降り始め、水を拭き取ると雨が止みます
不思議に思い、その目玉を奉納した先が、この龍光寺だそうです。
功徳を積んだお遍路さんには、悪魔さえも手出しが出来ないのです
***********
本堂とお大師堂でお参りを修めた一行は、稲荷神社へ向かいます。
鳥居というと、神社の『専売特許』といったイメージが強くありますが、
これは本来、『結界』とか『境界』を表わした印。
神道特有のものではありません。
神様へのお参りの作法、本州では廃れてしまっていますが、沖縄へ行くと
昔ながらのやり方が、キチンと残っています。
名前と住所、生年月日と干支をお伝えして、御挨拶申し上げる
仏教徒であれば、自分の宗派を述べるのも良いでしょう。
お参りさせて頂く我々の側からは、相対している神様が、どのような方か
分かっていますので、こちらの素性も明らかにするのが礼儀です。
時に「神前で般若心経を唱えてよいか?」といった事が論じられますが、
空海さまの著作『般若心経秘鍵』には、
「神社にお参りする際は、これをお唱えしなさい。」
・・・と、記されています。
***********
納経所で、お軸に御朱印を頂いた杉本さん
他の参拝者に気を遣い、慌てて出し入れする事が多いため、大切なお軸が
ねじれていたのを、納経所の女性がキチンと直して下さったそうです。
ほんのちょっとした心遣いに、思わず心温まる瞬間があります
何気ない対応で、他人を笑顔にする事が出来る。
・・・我が身を省みる、良い機会を頂いたようです。
***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
民家と土産物屋、うどん屋などが軒を連ねた、車一台がようやく通れる
細い参道の先にある、盆地に位置するこちらのお寺。
石段の下から見ると、向かって右側に大師堂、左に本堂、そして正面には
赤い鳥居の奥に稲荷神社のお社がある、変わった造りになっています。
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空海さまが、唐の国から密教を持ち帰られた当時。
伝えようとされた新しいみ教えが、どんなに素晴らしいものであっても、
旧来の考え・風習を守る側にとっては、やはり抵抗があります
古い教えを否定するのではなく、その利点を十分に理解し、敬意を払って
尊重しつつ、新しい密教を導入する事で、お互いを更に高め合える・・・
空海さまは、旧来の教えを否定するのではなく、共存共栄を念頭に置いて
苦労しながら、密教を広められましたが、この地を巡錫なさっていた時、
稲を背負った翁が現れ、み教えに感動して、
「仏法により、この地を守りたい」
・・・と言った、と伝えられています。
これに類する説話は、各地に伝わっており、出会うのが、ある時は美女、
またある時は大男だったりするのですが、それらの人物は、土地の神様が
人の形を借りて現われた姿だと考えられています。
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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小咄、凸凹同行記。
柿のお接待に喜ぶごんたですが、二度と会う事のない自分に、どうして、
土地の人は親切にお接待してくれるのだろう?・・・と、不思議な様子。
たけやんによれば、かつてお大師さまは、色々な姿で歩いておられたので
土地の人々は、お大師さまをお接待したい一心で、巡礼されている人々に
色々と施しをする内に、お接待それ自体の素晴らしさ・喜びに目覚めた、
という事のようです。
だから、
「今後会う事のない人をお接待するのは『損』だ。」
・・・などといった、浅ましい考えはないわけです(笑)
四国は、罪を懺悔するために巡る、とも言われています。
懺悔し、心を美しく磨き上げて、功徳を積む。
『病は気から』という言葉もあるように、磨かれた美しい心を得る事は、
体と精神の安定をもたらします。
懺悔を『ふるまい・お接待』として表わすならば、お遍路を巡る側の人が
土地の人に施しながら歩くという事もあり得るわけで、事実、小豆島では
そのような形のお遍路が実在するそうです。
『施しながら歩く』という事に、ごんたは難色を示しているようですが、
施すのは、必ずしも『物』である必要はありません。
『心』・・・即ち、『皆の幸せを祈る気持ち』で良いのです。
功徳といえば、昔、施しをしながら遍路をしていた行者が、疲労のため、
お寺の境内で休んでいた時の事。
悪い龍が現れ、眠り込んでいるそのお遍路さんに襲いかかろうとした所、
腰の守り刀が勝手に抜けて、龍の目を刺し、退治しました。
何も知らないお遍路さん、足元に転がっている龍の目玉を洗ったところ、
突如として雨が降り始め、水を拭き取ると雨が止みます
不思議に思い、その目玉を奉納した先が、この龍光寺だそうです。
功徳を積んだお遍路さんには、悪魔さえも手出しが出来ないのです
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本堂とお大師堂でお参りを修めた一行は、稲荷神社へ向かいます。
鳥居というと、神社の『専売特許』といったイメージが強くありますが、
これは本来、『結界』とか『境界』を表わした印。
神道特有のものではありません。
神様へのお参りの作法、本州では廃れてしまっていますが、沖縄へ行くと
昔ながらのやり方が、キチンと残っています。
名前と住所、生年月日と干支をお伝えして、御挨拶申し上げる
仏教徒であれば、自分の宗派を述べるのも良いでしょう。
お参りさせて頂く我々の側からは、相対している神様が、どのような方か
分かっていますので、こちらの素性も明らかにするのが礼儀です。
時に「神前で般若心経を唱えてよいか?」といった事が論じられますが、
空海さまの著作『般若心経秘鍵』には、
「神社にお参りする際は、これをお唱えしなさい。」
・・・と、記されています。
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納経所で、お軸に御朱印を頂いた杉本さん
他の参拝者に気を遣い、慌てて出し入れする事が多いため、大切なお軸が
ねじれていたのを、納経所の女性がキチンと直して下さったそうです。
ほんのちょっとした心遣いに、思わず心温まる瞬間があります
何気ない対応で、他人を笑顔にする事が出来る。
・・・我が身を省みる、良い機会を頂いたようです。
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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
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