今回のお参りは第五十四番札所、近見山・延命寺です。
町中からごく近い、ゆったりとした丘の上にあるこちらのお寺。
天平年間、行基菩薩さまにより開かれた後、衰退した時期がありましたが
時の天皇の勅願により、空海さまによって復興されました。
***********
こちら、院号を『宝鐘院』といいますが、かつては『不動院』でした。
その名の通り、御本尊は行基菩薩さま作のお不動さまだったわけですが、
院号が変わったという事は、その御本尊にも交代があったのかと言えば、
そうでもないようです。
お四国では敵役的な長曽我部氏ですが、こちらにもその軍勢が押し寄せ、
軍資金として梵鐘を略奪したものの、海に浮かべて運搬するその途中に、
運ばれるのを嫌がる梵鐘が、自ら海に飛び込んだという伝説があります。
その様な事から、院号が変更されたのでは?
・・・そんな推測も成り立つわけです。
***********
極彩色の仁王さまが立つ山門は、明治の廃藩置県に伴って、取り壊された
お城から移築されたもののようです。
奥にある釣り鐘は、自ら海に身を投げた、あの梵鐘か!?
・・・そんな期待もあって確認したところ、昭和五十二年に鋳造された、
新しいものでした。
しかし、試しに杉本さんが撞くと、その音色、そして余韻は素晴らしく、
鳴った瞬間に、小鳥達のさえずりも盛んになりました。
近年の釣り鐘の色に感動する事はないこうゆうさんも、この鐘の音色には
シビレた様子です
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
農作業に精を出す農民と、庄屋の孫兵衛さんが話をしています。
日照り続きで作物が採れないから、年貢の負担が重い事。
五年に一度の、用水池の修繕工事の当番の事。
農民達の苦しい生活を目の当たりにしている孫兵衛さん、工事の前の夜に
彼等のために宴を催すと共に、何やら一計を案じた様子で、
「明日の工事には、竹筒にお粥を入れて来るように。」
・・・と、皆に言い伝えます。
明けて、工事の当日の、昼の休憩。
隣の地区の人夫たちは、固い握り飯を頬張っています。
一方、孫兵衛さんの家で御馳走になった農民たちは、不審に思いながらも
言いつけをきちんと守り、昼食に竹筒のお粥をすすっていました。
そんな様子を見た、代官所の役人。
フラフラの農民たちを見て、竹筒に入っているのは酒なのではないかと、
庄屋の孫兵衛さんを厳しく追及します。
そこで、孫兵衛さん。
日照り続きで作物も出来ず、お粥で空腹を紛らわせている事を告げます。
気の毒に思った役人。
その様子をお殿さまに報告したところ、その年の年貢を軽くするお達しが
あったそうです。
第五十四番札所、延命寺の境内には、享保の大飢饉から農民たちを救った
越智孫兵衛さんのお墓が、ひっそりと佇んでいます。
***********
お参りを修めて駐車場へ戻った一行は、そこでも、釣り鐘を目にします
1704年に鋳造されたという、有形文化財の釣り鐘。
年代から判断して、長曽我部軍が攻め入った後に造られたものですから、
やはりこれも、海に沈んだという、あの鐘とは別物のようです。
しかし第二次大戦中、軍部によって、全国の寺院に金属類を供出するよう
命令があったはずですが、お寺の縁起などが詳しく刻まれたこの梵鐘を、
危険を顧みず、守った人たちがいたわけです。
苦難の時代に、一番大事なものを守り通す、尊い姿勢。
言葉にするのは簡単ですが、実践となると、本当に困難な事でしょう。
そんな先人たちの御苦労や献身があったからこそ、現代に生きる我々が、
今ここで、その貴重な品々を味わう事が出来るのです。
***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
町中からごく近い、ゆったりとした丘の上にあるこちらのお寺。
天平年間、行基菩薩さまにより開かれた後、衰退した時期がありましたが
時の天皇の勅願により、空海さまによって復興されました。
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こちら、院号を『宝鐘院』といいますが、かつては『不動院』でした。
その名の通り、御本尊は行基菩薩さま作のお不動さまだったわけですが、
院号が変わったという事は、その御本尊にも交代があったのかと言えば、
そうでもないようです。
お四国では敵役的な長曽我部氏ですが、こちらにもその軍勢が押し寄せ、
軍資金として梵鐘を略奪したものの、海に浮かべて運搬するその途中に、
運ばれるのを嫌がる梵鐘が、自ら海に飛び込んだという伝説があります。
その様な事から、院号が変更されたのでは?
・・・そんな推測も成り立つわけです。
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極彩色の仁王さまが立つ山門は、明治の廃藩置県に伴って、取り壊された
お城から移築されたもののようです。
奥にある釣り鐘は、自ら海に身を投げた、あの梵鐘か!?
・・・そんな期待もあって確認したところ、昭和五十二年に鋳造された、
新しいものでした。
しかし、試しに杉本さんが撞くと、その音色、そして余韻は素晴らしく、
鳴った瞬間に、小鳥達のさえずりも盛んになりました。
近年の釣り鐘の色に感動する事はないこうゆうさんも、この鐘の音色には
シビレた様子です
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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
農作業に精を出す農民と、庄屋の孫兵衛さんが話をしています。
日照り続きで作物が採れないから、年貢の負担が重い事。
五年に一度の、用水池の修繕工事の当番の事。
農民達の苦しい生活を目の当たりにしている孫兵衛さん、工事の前の夜に
彼等のために宴を催すと共に、何やら一計を案じた様子で、
「明日の工事には、竹筒にお粥を入れて来るように。」
・・・と、皆に言い伝えます。
明けて、工事の当日の、昼の休憩。
隣の地区の人夫たちは、固い握り飯を頬張っています。
一方、孫兵衛さんの家で御馳走になった農民たちは、不審に思いながらも
言いつけをきちんと守り、昼食に竹筒のお粥をすすっていました。
そんな様子を見た、代官所の役人。
フラフラの農民たちを見て、竹筒に入っているのは酒なのではないかと、
庄屋の孫兵衛さんを厳しく追及します。
そこで、孫兵衛さん。
日照り続きで作物も出来ず、お粥で空腹を紛らわせている事を告げます。
気の毒に思った役人。
その様子をお殿さまに報告したところ、その年の年貢を軽くするお達しが
あったそうです。
第五十四番札所、延命寺の境内には、享保の大飢饉から農民たちを救った
越智孫兵衛さんのお墓が、ひっそりと佇んでいます。
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お参りを修めて駐車場へ戻った一行は、そこでも、釣り鐘を目にします
1704年に鋳造されたという、有形文化財の釣り鐘。
年代から判断して、長曽我部軍が攻め入った後に造られたものですから、
やはりこれも、海に沈んだという、あの鐘とは別物のようです。
しかし第二次大戦中、軍部によって、全国の寺院に金属類を供出するよう
命令があったはずですが、お寺の縁起などが詳しく刻まれたこの梵鐘を、
危険を顧みず、守った人たちがいたわけです。
苦難の時代に、一番大事なものを守り通す、尊い姿勢。
言葉にするのは簡単ですが、実践となると、本当に困難な事でしょう。
そんな先人たちの御苦労や献身があったからこそ、現代に生きる我々が、
今ここで、その貴重な品々を味わう事が出来るのです。
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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
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