今回のお参りは第五十五番札所、別宮山・南光坊です。
交通量の多い町中に位置するこちらのお寺。
本堂と大師堂の間に駐車場が挟まれているという、不思議な造りです
***********
周囲には他教団の道場や神社も多く、一体どこまでが南光坊なのかという
混沌とした立地ですが、これは明治政府の廃仏毀釈に端を発する混乱が、
そのまま現代に持ち込まれている感があります。
尚、南光坊の『坊』とは、お寺より小規模の、み仏のいらっしゃる場所を
意味しますが、『坊を守る主』が『坊主』の語源です。
こちらの御本尊は、全国的にも恐らく例が無い『大通智勝仏』さまですが
この仏さまは、今治沖の大三島からお迎えした明神さまの本地仏です。
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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
かつてこの地には樹齢三百年超という楠の大木があり、四方に張った枝は
六百坪という広さの土地を覆い尽くしていたため周囲は真昼でも薄暗く、
別宮の本殿や南光坊の金毘羅堂も、この枝の下にありました。
百年程前、オナオ・オサオ・オソデという三匹の雌狸がこの森に住み着き
時々化けては、村人や参拝者を驚かせていたそうです。
困った村人から相談を受けた天野快道住職は、イタズラを止めるようにと
三匹を諭し、彼女達のために楠を一本与えて各々に祠(ほこら)を建て、
村人達がそこに食べ物をお供えするようになると、それ以降、三匹による
イタズラはなくなりました。
ある日、楠の枝が金毘羅堂の屋根にかかっているのを見つけた村人。
皆と相談して、枝を切る事にしました。
次の日、長梯子を立てかけて、枝を切ろうと上まで昇ると・・・
枝は、屋根にかかっていません。
一晩で六尺も伸びたというその楠の噂は人々の間に広まり、御神木として
以後、信仰を集める事となります。
昭和になり、空襲を受けて焼けてしまってから後、新たに楠が移植され、
祠も新しく建てられました。
オナオ大明神、オサオ大明神、オソデ大明神は今も多くの人に親しまれ、
願掛けに訪れる参拝者もたくさんいるそうです。
尚、三つの内、オソデ大明神の祠だけが、戦前から残るものです。
***********
御本尊・大通智勝仏さまの御真言は、本来は非常に難解なものなのですが
こういった馴染みのあまりない仏さまや神さまを拝む場合は、代替として
『南無+(仏さま・神さまのお名前)』という簡略な唱え方もあります。
御詠歌は
『このところ三島に夢のさめぬれば別宮とてもおなじ垂迹』。
人々の信仰を集めていた、沖合いの大三島の神さま。
参拝するには不便なため別宮としてお迎えした訳ですが、だからといって
功徳が本宮と変わるところがあるわけではありません。
だからこそ、そこを慕って他の神さまも、大勢集って来られたという事を
現在の南光坊周辺の様子から、窺い知る事が出来ます。
***********
金毘羅堂と薬師堂の間には、立派な五輪塔がありますが、これは、南光坊
中興の祖・天野快道僧正のお墓です。
『天野』姓は、瀬戸内海に浮かぶ島々に多く見られる苗字だそうですが、
こうゆうさんの師匠であるお爺さまも、弓削島の御出身だそうです。
瀬戸内の島々と四国、そして本州
昔は交通手段も限られており、互いに分断されているような印象ですが、
実は、古来より尾道~今治ルートの文化交流は、盛んだったそうです。
御自身が、村上水軍の末裔とおっしゃった、こうゆうさんのお爺さま。
そんな事からこうゆうさん、伊予の国、そして天野快道僧正との繋がりを
強く感じられている様です
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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
交通量の多い町中に位置するこちらのお寺。
本堂と大師堂の間に駐車場が挟まれているという、不思議な造りです
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周囲には他教団の道場や神社も多く、一体どこまでが南光坊なのかという
混沌とした立地ですが、これは明治政府の廃仏毀釈に端を発する混乱が、
そのまま現代に持ち込まれている感があります。
尚、南光坊の『坊』とは、お寺より小規模の、み仏のいらっしゃる場所を
意味しますが、『坊を守る主』が『坊主』の語源です。
こちらの御本尊は、全国的にも恐らく例が無い『大通智勝仏』さまですが
この仏さまは、今治沖の大三島からお迎えした明神さまの本地仏です。
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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
かつてこの地には樹齢三百年超という楠の大木があり、四方に張った枝は
六百坪という広さの土地を覆い尽くしていたため周囲は真昼でも薄暗く、
別宮の本殿や南光坊の金毘羅堂も、この枝の下にありました。
百年程前、オナオ・オサオ・オソデという三匹の雌狸がこの森に住み着き
時々化けては、村人や参拝者を驚かせていたそうです。
困った村人から相談を受けた天野快道住職は、イタズラを止めるようにと
三匹を諭し、彼女達のために楠を一本与えて各々に祠(ほこら)を建て、
村人達がそこに食べ物をお供えするようになると、それ以降、三匹による
イタズラはなくなりました。
ある日、楠の枝が金毘羅堂の屋根にかかっているのを見つけた村人。
皆と相談して、枝を切る事にしました。
次の日、長梯子を立てかけて、枝を切ろうと上まで昇ると・・・
枝は、屋根にかかっていません。
一晩で六尺も伸びたというその楠の噂は人々の間に広まり、御神木として
以後、信仰を集める事となります。
昭和になり、空襲を受けて焼けてしまってから後、新たに楠が移植され、
祠も新しく建てられました。
オナオ大明神、オサオ大明神、オソデ大明神は今も多くの人に親しまれ、
願掛けに訪れる参拝者もたくさんいるそうです。
尚、三つの内、オソデ大明神の祠だけが、戦前から残るものです。
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御本尊・大通智勝仏さまの御真言は、本来は非常に難解なものなのですが
こういった馴染みのあまりない仏さまや神さまを拝む場合は、代替として
『南無+(仏さま・神さまのお名前)』という簡略な唱え方もあります。
御詠歌は
『このところ三島に夢のさめぬれば別宮とてもおなじ垂迹』。
人々の信仰を集めていた、沖合いの大三島の神さま。
参拝するには不便なため別宮としてお迎えした訳ですが、だからといって
功徳が本宮と変わるところがあるわけではありません。
だからこそ、そこを慕って他の神さまも、大勢集って来られたという事を
現在の南光坊周辺の様子から、窺い知る事が出来ます。
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金毘羅堂と薬師堂の間には、立派な五輪塔がありますが、これは、南光坊
中興の祖・天野快道僧正のお墓です。
『天野』姓は、瀬戸内海に浮かぶ島々に多く見られる苗字だそうですが、
こうゆうさんの師匠であるお爺さまも、弓削島の御出身だそうです。
瀬戸内の島々と四国、そして本州
昔は交通手段も限られており、互いに分断されているような印象ですが、
実は、古来より尾道~今治ルートの文化交流は、盛んだったそうです。
御自身が、村上水軍の末裔とおっしゃった、こうゆうさんのお爺さま。
そんな事からこうゆうさん、伊予の国、そして天野快道僧正との繋がりを
強く感じられている様です
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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
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