今回のお参りは第六十六番札所、巨鼈山・雲辺寺です。
前回の三角寺が伊予の国最後の札所で、ここから涅槃の道場・讃岐の国。
・・・のはずですが、実はこちら、讃岐と境を接した徳島県になります。
***********
麓の駐車場からロープウェイで2.6km、時間にすると7分。
標高916mの山頂まで一気に上る行程は、スリル満点
高い所が苦手なこうゆうさん、口の中が渇き、ロープの弛みが気になり、
レポートどころではない様です(笑)
到着した山頂は、やはり気温がグッと低く、まさに雲の中のお寺。
お大師さまの遺された御詠歌は・・・
「はるばると 雲のほとりの寺にきて つきひを今はふもとにぞ見る」
遥々やって来られたという、時間を指す『月日』と共に、寺号の示す通り
太陽や月さえも見下ろす、高い峰である事を表現されています。
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
昔、雲辺寺の麓に、与成という猟師がいました。
初めは猟も上手くありませんでしたが、雲辺寺の御本尊である観音さまに
「鉄砲が上手くなりますように」と願をかけ、努力を続けていたところ、
その姿勢を見た観音さまは、願いを聞き入れて下さり、やがて百発百中の
達人へと成長しました。
ただ、腕が上がるにつれ、願いは「獲物が捕れますように」という内容へ
変わりましたが、それは直接的に『殺生』を意味します。
そろそろ与成が悟りを開く時期と考えた観音さま、殺生をやめさせるため
釣り鐘を被って、猟へ出ている与成の前に現れました。
釣り鐘を見た与成、獲物と思い撃つと見事命中、森に響き渡る大きな音。
与成の様子を見ようと、釣り鐘から外を覗き見る観音さま。
鐘の音に驚きながらも、釣り鐘の隙間から光る眼に向かって撃つ与成。
近付くと獲物の姿はなく、雲辺寺へと続く血の跡。
獲物がお寺へと逃げ込んで、血で汚してしまったと思った与成。
お詫びをするため、本堂へお参りしたところ、そこには、眼から血を流す
御本尊の千手観音さま。
与成は、「殺生をやめよ」という御本尊のお導きと受け取り、それ以後は
猟師を引退、雲辺寺の整備に心血を注いだそうです。
一方、眼を射抜かれた観音さまは、眼病にお力を発揮される仏さまとして
現在も、多くの人々の信仰を集めています。
***********
次は、杉本さんのてくてくインタビュー・ひとへんろ。
今回登場されるのは、宮城からいらしたという男性。
歩きが主体ですが、負荷のかかる場所は電車等も利用するというこの方、
全行程を3区分として、今回はその3回目、59番から高野山に向けての、
最後の行程だそうです。
お遍路のきっかけは、特に信仰心から・・・という訳ではなく、数年前に
大学の同窓会が金比羅さんで開かれた際、近くのお寺にお参りした事で、
お遍路というものに興味を持ったのだそうです。
***********
杉本さん、境内で見た『解体補修中』の看板が印象に残ったそうですが、
何かと新しい物を求める最近の風潮にあって、古い物を活かすという所に
興味を引かれた様子。
信仰の場である寺院。
長年親しまれてきた外観を、そのまま次の世代に引き継ぐ事が出来れば、
それが理想的かもしれません。
ただその一方で、文化財としての保存や、防災・安全面からの制限など、
様々な問題があるのも事実です。
仏像の修復では、表面を新品の様なピカピカの美しさにするのではなく、
それを安置する古い建物との調和をとるために、敢えて『ふるぼとけ』に
仕上げる場合も多くあるそうです。
確かに文化財を味わうという側面から考えれば、それも一理ありますが、
本来の信仰という軸から考えれば、別の解答が導き出されます。
お寺には老若男女、様々な境遇・年代の人々が訪れます。
中にはお年寄りなど、視力の弱い方もいらっしゃいます。
ですから、あらゆる人に仏さまの御威光を伝えるには、建立の頃のままの
極彩色というのが、非常に重要な意味を持つのです。
護摩の炎で煤けたお堂や、仏さま。
それらを補修して元の極彩色に戻した後、煤けるまでしっかり拝み込み、
そして後世の者が、再び元の極彩色に補修して・・・
本筋である『信仰』の面から考えれば、為すべき事は明らかです。
ただその一方、別の分野からは、文化財の『味わい』を要求される場面が
多くある事も、やはり事実。
こうゆうさんも、御自身が住職を務めらていれるお寺を補修する際には、
悩まれた部分だそうです。
***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
前回の三角寺が伊予の国最後の札所で、ここから涅槃の道場・讃岐の国。
・・・のはずですが、実はこちら、讃岐と境を接した徳島県になります。
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麓の駐車場からロープウェイで2.6km、時間にすると7分。
標高916mの山頂まで一気に上る行程は、スリル満点
高い所が苦手なこうゆうさん、口の中が渇き、ロープの弛みが気になり、
レポートどころではない様です(笑)
到着した山頂は、やはり気温がグッと低く、まさに雲の中のお寺。
お大師さまの遺された御詠歌は・・・
「はるばると 雲のほとりの寺にきて つきひを今はふもとにぞ見る」
遥々やって来られたという、時間を指す『月日』と共に、寺号の示す通り
太陽や月さえも見下ろす、高い峰である事を表現されています。
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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
昔、雲辺寺の麓に、与成という猟師がいました。
初めは猟も上手くありませんでしたが、雲辺寺の御本尊である観音さまに
「鉄砲が上手くなりますように」と願をかけ、努力を続けていたところ、
その姿勢を見た観音さまは、願いを聞き入れて下さり、やがて百発百中の
達人へと成長しました。
ただ、腕が上がるにつれ、願いは「獲物が捕れますように」という内容へ
変わりましたが、それは直接的に『殺生』を意味します。
そろそろ与成が悟りを開く時期と考えた観音さま、殺生をやめさせるため
釣り鐘を被って、猟へ出ている与成の前に現れました。
釣り鐘を見た与成、獲物と思い撃つと見事命中、森に響き渡る大きな音。
与成の様子を見ようと、釣り鐘から外を覗き見る観音さま。
鐘の音に驚きながらも、釣り鐘の隙間から光る眼に向かって撃つ与成。
近付くと獲物の姿はなく、雲辺寺へと続く血の跡。
獲物がお寺へと逃げ込んで、血で汚してしまったと思った与成。
お詫びをするため、本堂へお参りしたところ、そこには、眼から血を流す
御本尊の千手観音さま。
与成は、「殺生をやめよ」という御本尊のお導きと受け取り、それ以後は
猟師を引退、雲辺寺の整備に心血を注いだそうです。
一方、眼を射抜かれた観音さまは、眼病にお力を発揮される仏さまとして
現在も、多くの人々の信仰を集めています。
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次は、杉本さんのてくてくインタビュー・ひとへんろ。
今回登場されるのは、宮城からいらしたという男性。
歩きが主体ですが、負荷のかかる場所は電車等も利用するというこの方、
全行程を3区分として、今回はその3回目、59番から高野山に向けての、
最後の行程だそうです。
お遍路のきっかけは、特に信仰心から・・・という訳ではなく、数年前に
大学の同窓会が金比羅さんで開かれた際、近くのお寺にお参りした事で、
お遍路というものに興味を持ったのだそうです。
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杉本さん、境内で見た『解体補修中』の看板が印象に残ったそうですが、
何かと新しい物を求める最近の風潮にあって、古い物を活かすという所に
興味を引かれた様子。
信仰の場である寺院。
長年親しまれてきた外観を、そのまま次の世代に引き継ぐ事が出来れば、
それが理想的かもしれません。
ただその一方で、文化財としての保存や、防災・安全面からの制限など、
様々な問題があるのも事実です。
仏像の修復では、表面を新品の様なピカピカの美しさにするのではなく、
それを安置する古い建物との調和をとるために、敢えて『ふるぼとけ』に
仕上げる場合も多くあるそうです。
確かに文化財を味わうという側面から考えれば、それも一理ありますが、
本来の信仰という軸から考えれば、別の解答が導き出されます。
お寺には老若男女、様々な境遇・年代の人々が訪れます。
中にはお年寄りなど、視力の弱い方もいらっしゃいます。
ですから、あらゆる人に仏さまの御威光を伝えるには、建立の頃のままの
極彩色というのが、非常に重要な意味を持つのです。
護摩の炎で煤けたお堂や、仏さま。
それらを補修して元の極彩色に戻した後、煤けるまでしっかり拝み込み、
そして後世の者が、再び元の極彩色に補修して・・・
本筋である『信仰』の面から考えれば、為すべき事は明らかです。
ただその一方、別の分野からは、文化財の『味わい』を要求される場面が
多くある事も、やはり事実。
こうゆうさんも、御自身が住職を務めらていれるお寺を補修する際には、
悩まれた部分だそうです。
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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
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