今回のお参りは第五十番札所、東山・繁多寺です。
世間的には、『数にこだわるな』と言われる場面もよくあります。
しかし、やはり『50番』という、節目の数字。
『ここまでやって来た』という充実感と共に、結願に向けて決意を新たに
心を奮い立たせるものがあります。
四国遍路は、各札所に番号をふり、順を追って参拝する仕組みにした事で
修行の段階が分かると同時に、巡礼者の目標・動機づけにもなっており、
それが、今日まで栄えている理由なのかもしれません。
***********
なだらかな坂を上った、住宅地の中に位置するこちらのお寺。
眼下には松山の市街地が広がり、すばらしい眺めです。
天平時代、行基さまが開かれた当時、天皇より多くの旗を賜った事から、
元々は『旗多寺』という寺号だったのですが、時代の移り変わりに伴い、
その音と、繁栄を意味する『繁』の文字が使われる様になりました。
その一方、地元では『畑寺』と呼ばれ、親しまれているこちら。
畑とは、神仏への供物を作る場所でもあります。
いずれの呼び名も、経済の流れを表わした、深い意味が含まれています。
(因みに『経済』という言葉も、仏教用語です。)
***********
こちらのお寺は、素晴らしい音色を聴かせてくれる釣り鐘が有名ですが
力を込めて、大きな音を響かせるのが正しい鐘の撞き方か、と問われれば
必ずしも、そうとは言えません。
お寺は修行の場、
他の参拝者もおり、また鐘を撞く本人も、修行をしている身です。
周囲への配慮を怠らず、他の参拝者の邪魔にならぬ様に、心を配りながら
美しい音を響かせるのが、修行者としてのあるべき姿勢でしょう。
この釣り鐘、三百年前に法雲律師が、貧富の隔てなく民衆から浄財を募り
皆の願いを刻み込んで、作り上げたものです。
『貧富の隔てなく』と聞くと、現代人からすれば、富める者も貧しい者も
同じ額の財貨を提供した、と捉えたくなりますが、そうではありません。
富める者は豊かなりに、また貧しい者は貧しいなりに、それぞれの立場で
出来うる限りの力を尽くして、皆の幸福を祈った事を意味しています。
浄財、寄付、寄進・・・
これらの意味を突き詰めると、『喜捨』という言葉になります。
「『喜んで捨てる』事など、出来るものか!」
・・・そんなことを言う人もいます。
しかし考えてみれば、自分の子や孫、身内に対して、何の見返りも求めず
色々な物を買ったり、与えたりという事は、誰もが行っています。
ならば、もう少し範囲を広げて、自分が生きている世間や社会のためにも
同じ事は出来るのではないでしょうか?
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
日照り続きで、水は枯れ、作物も採れない
弱い者から順番に、バタバタと倒れて行く村人達。
・・・そんな有様の毎日を嘆くキンゾウとトヨゾウの所へ、村の御住職が
やって来ます。
「『先ず自分が助かりたい』という貪りの心を捨て、皆が共に助かって、
ニコニコと穏やかに暮らせる事を考えよ。」
そう言い遺した覚了住職。
掘った穴に籠り、命懸けの雨乞いを始めます。
噂は村人達に広まり、『自分のため』ではなく、『皆のため』の思いで、
全員が、一心に拝み始めました
覚了住職の読経の声が途絶えて、21日後。
一天俄にかき曇り、雷鳴が轟き、やがて雨が降り始めました。
尊い覚了住職の命と引き換えに、村人達は助かったのです
・・・しかし、彼等に笑顔はありませんでした
自分達の身勝手で、偉いお坊さんを亡くしてしまった村人達。
「まず先に、人様から。」
・・・村人達は、譲り合いの心を大切にする事を誓い合いました。
繁多寺には、村人から覚了住職への感謝の気持ちを表わした『聖人塚』が
残されています。
***********
大師堂の中には、空海さまの座像が安置されていますが、その大師堂と、
本堂の間には、修行大師像。
「見守って下さっている。」という事を体感出来ます。
ありそうでありながら、他のお寺では見かけない配置。
繁多寺へお参りの際には、足を止めて、味わって頂きたいと思います
***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
世間的には、『数にこだわるな』と言われる場面もよくあります。
しかし、やはり『50番』という、節目の数字。
『ここまでやって来た』という充実感と共に、結願に向けて決意を新たに
心を奮い立たせるものがあります。
四国遍路は、各札所に番号をふり、順を追って参拝する仕組みにした事で
修行の段階が分かると同時に、巡礼者の目標・動機づけにもなっており、
それが、今日まで栄えている理由なのかもしれません。
***********
なだらかな坂を上った、住宅地の中に位置するこちらのお寺。
眼下には松山の市街地が広がり、すばらしい眺めです。
天平時代、行基さまが開かれた当時、天皇より多くの旗を賜った事から、
元々は『旗多寺』という寺号だったのですが、時代の移り変わりに伴い、
その音と、繁栄を意味する『繁』の文字が使われる様になりました。
その一方、地元では『畑寺』と呼ばれ、親しまれているこちら。
畑とは、神仏への供物を作る場所でもあります。
いずれの呼び名も、経済の流れを表わした、深い意味が含まれています。
(因みに『経済』という言葉も、仏教用語です。)
***********
こちらのお寺は、素晴らしい音色を聴かせてくれる釣り鐘が有名ですが

力を込めて、大きな音を響かせるのが正しい鐘の撞き方か、と問われれば
必ずしも、そうとは言えません。
お寺は修行の場、
他の参拝者もおり、また鐘を撞く本人も、修行をしている身です。
周囲への配慮を怠らず、他の参拝者の邪魔にならぬ様に、心を配りながら
美しい音を響かせるのが、修行者としてのあるべき姿勢でしょう。
この釣り鐘、三百年前に法雲律師が、貧富の隔てなく民衆から浄財を募り
皆の願いを刻み込んで、作り上げたものです。
『貧富の隔てなく』と聞くと、現代人からすれば、富める者も貧しい者も
同じ額の財貨を提供した、と捉えたくなりますが、そうではありません。
富める者は豊かなりに、また貧しい者は貧しいなりに、それぞれの立場で
出来うる限りの力を尽くして、皆の幸福を祈った事を意味しています。
浄財、寄付、寄進・・・
これらの意味を突き詰めると、『喜捨』という言葉になります。
「『喜んで捨てる』事など、出来るものか!」
・・・そんなことを言う人もいます。
しかし考えてみれば、自分の子や孫、身内に対して、何の見返りも求めず
色々な物を買ったり、与えたりという事は、誰もが行っています。
ならば、もう少し範囲を広げて、自分が生きている世間や社会のためにも
同じ事は出来るのではないでしょうか?
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
日照り続きで、水は枯れ、作物も採れない

弱い者から順番に、バタバタと倒れて行く村人達。
・・・そんな有様の毎日を嘆くキンゾウとトヨゾウの所へ、村の御住職が
やって来ます。
「『先ず自分が助かりたい』という貪りの心を捨て、皆が共に助かって、
ニコニコと穏やかに暮らせる事を考えよ。」
そう言い遺した覚了住職。
掘った穴に籠り、命懸けの雨乞いを始めます。
噂は村人達に広まり、『自分のため』ではなく、『皆のため』の思いで、
全員が、一心に拝み始めました

覚了住職の読経の声が途絶えて、21日後。
一天俄にかき曇り、雷鳴が轟き、やがて雨が降り始めました。
尊い覚了住職の命と引き換えに、村人達は助かったのです

・・・しかし、彼等に笑顔はありませんでした

自分達の身勝手で、偉いお坊さんを亡くしてしまった村人達。
「まず先に、人様から。」
・・・村人達は、譲り合いの心を大切にする事を誓い合いました。
繁多寺には、村人から覚了住職への感謝の気持ちを表わした『聖人塚』が
残されています。
***********
大師堂の中には、空海さまの座像が安置されていますが、その大師堂と、
本堂の間には、修行大師像。
「見守って下さっている。」という事を体感出来ます。
ありそうでありながら、他のお寺では見かけない配置。
繁多寺へお参りの際には、足を止めて、味わって頂きたいと思います

***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!

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今回のお参りは第四十九番札所、西林山・浄土寺です。
松山市内の住宅地に位置するこちらのお寺、立派な山門を守る仁王さまは
その迫力ある表情まで、はっきりと拝む事が出来ます。
天平から平安にかけての特徴である、地を這うような低い造りの屋根は、
とても上品で、米裕さん好みだそうです
因みに、鎌倉期のお寺は、武家社会を反映して、勢いや威厳が好まれて、
屋根が高く、装飾も豪華になるそうです。
***********
現在は真言宗の豊山派に属するこちらのお寺、奈良時代に開かれてから、
空海さまが、お釈迦さまを御本尊としてお迎えされた後、浄土系の高僧を
3人お祀りされている事から、院号を『三蔵院』と称するのだそうです。
本堂の背後には山があり、理想的な立地。
最盛期は66坊の末寺を抱える、一大伽藍を誇ったお寺だった
ようです。
***********
山門の仁王さまのお姿を観た杉本さん、気になった事が2つ

< 質問・その1 >
現在でも、この様な仏像を作る人はいるのですか?
< 答え >
勿論、現在でもそういった職業の方はいらっしゃって、木や石を刻んで、
『像』を作る人が『仏師』さん、布や紙に描く人が『仏画師』さんです。
『仏さまを生み出す』という、とても尊い仕事ですので、中には本山から
『大仏師』というお名前を授かる方もいらっしゃるそうです。
< 質問・その2 >
各札所で見かける仁王さまには、決まったモデルはあるのですか?
< 答え >
それぞれの仏さまは、性格やお役目によって、決まった持物や印相があり
それを事細かく解説した書物があり、それに基づいて仏像が作られます。
ただ、文字での説明だけなので、仏師さんの解釈や、時代の流行などから
同じ仏さまでも、それぞれのお寺によって、微妙な個性があるのです。
因みに、空海さまは入定なさる前に『御遺告(ごゆいごう)』を残されて、
「私の姿が見えなくなっても、嘆き、悲しむ事はない。木や石に刻まれ、
絵に描かれた姿を、私だと思って念じれば、そこに宿って皆を助ける。」
・・・とおっしゃっています。
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
ここは伊予の国、即ち菩提の道場。
菩提とは、悟りの境地。
・・・という事で、何やら悟ったらしいごんた。
山門に所構わず貼り付けられた、参拝者の名前の記された手拭や千社札。
破れたり、画鋲で留められたり・・・
有り難いお寺を、汚しているだけの様に思えます。
名前を残す事で、御本尊さまにいつも見て頂き、ずっとお陰を頂ける。
・・・そんな、浅ましい思いから出た、誤った考えに基づく風習ですが、
仏さまとは、分け隔てのない世界にお住まいのお方。
名前を残す、残さないに関係なく、キチンと見て下さっています。
名前を貼り付ける・・・他人を押しのけて『自分だけにお陰を』という、
『貪る心』。
その他にも、札を貼り付けて木材の寿命を縮める『殺生』の罪。
山門を汚す事で、他の参拝者の信仰を妨げる罪。
仏教徒の守らねばならない『十善戒』が、悉く破られているという事実が
分かります。
人間とは、自己顕示欲の塊です。
でも、そういった浅薄な自分自身から一歩引いて、今日のごんたの様に、
物事を冷静に見る目を持つ事が重要です
お寺は『修行の場』。
千社札を貼る事だけに気を取られ、肝心のお参りが疎かになっている輩に
『八十八箇所を歩いた』などと言う資格はありません。
『全ての人が、気持ち良くお参り出来る様に』という心掛けでのお参り、
それが即ち、修行につながって行きます。
たけやんの言う通り、お参りの際に、雑巾がけや草引きを行うという事も
立派な修行でしょう
***********
日本では、立派な木には『神が宿る』とされてきました。
海外から入って来た新たな『仏教』。
民衆に受け入れられるには、様々な苦労・苦難があった事と思います。
そんな、後発の教えの象徴である仏像を『神木』に刻む。
・・・ここに、日本の、神と仏への信仰の形が定まった、という考え方も
あるそうです。
前述した通り、空海さまは、自身のお姿を残す事を肯定されました。
しかしその一方で、偶像崇拝を否定する宗派もあります。
偉大な方が亡くなると、その方を慕う人各々に理想のイメージがあって、
それが時には、争いの元にもなります。
お釈迦が、入滅される前に心配なさっていたのは、正にその部分の事で、
だからこそ、仏教としての教義がキチンとした形で体系化されるまでは、
御自身のお姿を刻み、描く事を禁じられたのです
その事からすると、弘法大師空海さまのお考えは、画期的を通り越して、
お釈迦さまのみ教えに反するのではないか、とさえ感じてしまいます。
しかし、空海さまの活躍された時代、仏教は広く民衆に受け入れられて、
しっかりと定まったものとなっていました。
しかも、どの様なお姿を残せばよいのかというお弟子さんの疑問に対し、
「この姿、この形だけを残し、念じなさい
」とおっしゃって、そのお姿を
描かせたそうです。
現代まで、お大師さまの仏画は全て、その『正御影』が唯一のモデルで、
他のポーズやアングルの画は存在しません。
その意味で、後世の弟子や信者達の争いを未然に防止している訳ですから
空海さまの行動は画期的に見えて、実はお釈迦さまのお考えに反する所は
どこにもない事が分かります
***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
松山市内の住宅地に位置するこちらのお寺、立派な山門を守る仁王さまは
その迫力ある表情まで、はっきりと拝む事が出来ます。
天平から平安にかけての特徴である、地を這うような低い造りの屋根は、
とても上品で、米裕さん好みだそうです

因みに、鎌倉期のお寺は、武家社会を反映して、勢いや威厳が好まれて、
屋根が高く、装飾も豪華になるそうです。
***********
現在は真言宗の豊山派に属するこちらのお寺、奈良時代に開かれてから、
空海さまが、お釈迦さまを御本尊としてお迎えされた後、浄土系の高僧を
3人お祀りされている事から、院号を『三蔵院』と称するのだそうです。
本堂の背後には山があり、理想的な立地。
最盛期は66坊の末寺を抱える、一大伽藍を誇ったお寺だった
ようです。
***********
山門の仁王さまのお姿を観た杉本さん、気になった事が2つ


< 質問・その1 >
現在でも、この様な仏像を作る人はいるのですか?
< 答え >
勿論、現在でもそういった職業の方はいらっしゃって、木や石を刻んで、
『像』を作る人が『仏師』さん、布や紙に描く人が『仏画師』さんです。
『仏さまを生み出す』という、とても尊い仕事ですので、中には本山から
『大仏師』というお名前を授かる方もいらっしゃるそうです。
< 質問・その2 >
各札所で見かける仁王さまには、決まったモデルはあるのですか?
< 答え >
それぞれの仏さまは、性格やお役目によって、決まった持物や印相があり
それを事細かく解説した書物があり、それに基づいて仏像が作られます。
ただ、文字での説明だけなので、仏師さんの解釈や、時代の流行などから
同じ仏さまでも、それぞれのお寺によって、微妙な個性があるのです。
因みに、空海さまは入定なさる前に『御遺告(ごゆいごう)』を残されて、
「私の姿が見えなくなっても、嘆き、悲しむ事はない。木や石に刻まれ、
絵に描かれた姿を、私だと思って念じれば、そこに宿って皆を助ける。」
・・・とおっしゃっています。
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
ここは伊予の国、即ち菩提の道場。
菩提とは、悟りの境地。
・・・という事で、何やら悟ったらしいごんた。
山門に所構わず貼り付けられた、参拝者の名前の記された手拭や千社札。
破れたり、画鋲で留められたり・・・

有り難いお寺を、汚しているだけの様に思えます。
名前を残す事で、御本尊さまにいつも見て頂き、ずっとお陰を頂ける。
・・・そんな、浅ましい思いから出た、誤った考えに基づく風習ですが、
仏さまとは、分け隔てのない世界にお住まいのお方。
名前を残す、残さないに関係なく、キチンと見て下さっています。
名前を貼り付ける・・・他人を押しのけて『自分だけにお陰を』という、
『貪る心』。
その他にも、札を貼り付けて木材の寿命を縮める『殺生』の罪。
山門を汚す事で、他の参拝者の信仰を妨げる罪。
仏教徒の守らねばならない『十善戒』が、悉く破られているという事実が
分かります。
人間とは、自己顕示欲の塊です。
でも、そういった浅薄な自分自身から一歩引いて、今日のごんたの様に、
物事を冷静に見る目を持つ事が重要です

お寺は『修行の場』。
千社札を貼る事だけに気を取られ、肝心のお参りが疎かになっている輩に
『八十八箇所を歩いた』などと言う資格はありません。
『全ての人が、気持ち良くお参り出来る様に』という心掛けでのお参り、
それが即ち、修行につながって行きます。
たけやんの言う通り、お参りの際に、雑巾がけや草引きを行うという事も
立派な修行でしょう

***********
日本では、立派な木には『神が宿る』とされてきました。
海外から入って来た新たな『仏教』。
民衆に受け入れられるには、様々な苦労・苦難があった事と思います。
そんな、後発の教えの象徴である仏像を『神木』に刻む。
・・・ここに、日本の、神と仏への信仰の形が定まった、という考え方も
あるそうです。
前述した通り、空海さまは、自身のお姿を残す事を肯定されました。
しかしその一方で、偶像崇拝を否定する宗派もあります。
偉大な方が亡くなると、その方を慕う人各々に理想のイメージがあって、
それが時には、争いの元にもなります。
お釈迦が、入滅される前に心配なさっていたのは、正にその部分の事で、
だからこそ、仏教としての教義がキチンとした形で体系化されるまでは、
御自身のお姿を刻み、描く事を禁じられたのです

その事からすると、弘法大師空海さまのお考えは、画期的を通り越して、
お釈迦さまのみ教えに反するのではないか、とさえ感じてしまいます。
しかし、空海さまの活躍された時代、仏教は広く民衆に受け入れられて、
しっかりと定まったものとなっていました。
しかも、どの様なお姿を残せばよいのかというお弟子さんの疑問に対し、
「この姿、この形だけを残し、念じなさい

描かせたそうです。
現代まで、お大師さまの仏画は全て、その『正御影』が唯一のモデルで、
他のポーズやアングルの画は存在しません。
その意味で、後世の弟子や信者達の争いを未然に防止している訳ですから
空海さまの行動は画期的に見えて、実はお釈迦さまのお考えに反する所は
どこにもない事が分かります

***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!

今回のお参りは第四十八番札所、清滝山・西林寺です。
四方に川の流れる、水に恵まれた土地に位置するこちら。
元は奈良時代に開かれた、大変に歴史のある、古いお寺です。
***********
お寺の歴史に比して、大師堂は比較的新しい建物です。
そんな事から、お寺の再建等のタイミングが気になった杉本さん

こうゆうさんに質問したところ、回答は次の通り。

そのお寺の歴史などから、独自に決める場合
祖山の記念行事などに合わせて行う場合
大きな事業ですので、景気云々という事情に左右されがちになりますが、
俗世間の流れではなく、『信仰』を軸に考えねばなりません。
『再建』という事は、元々立派な建物があった事を意味しており、それは
先人達が苦労しながら、現在の信仰の礎を築いた事を表わしています。
仏さまの御威光を存分に発揮して頂けるよう、持てる力を注ぎ込むのが、
その時機に巡り合った者の、なすべき務めです。
周囲のその様な態度や覚悟が、そのお寺の空気・雰囲気を形作ってゆき、
結果、末代まで誇れる建物として結実するのでしょう。
尚、荒廃した寺院を再建する順序は、まずは本堂から。
まず、お寺の中心である場所の復興を優先して行った上で、客殿、塀など
周辺部に着手して行くべき、との事。
本堂というお寺の中枢部の再建、間違いなく、大変な事業ではあります。
しかし、初めに最も大きな苦難を乗り越える事が出来れば、あとの苦労は
それほど大きなものとは感じないでしょう。
この事が民間に伝わって、『本家普請は立派にせよ』という風習・習慣に
繋がっているのかもしれません。
***********
本堂前にて、秘仏の御本尊・十一面観音さまへのお参りを修めた一行は、
こうゆうさんの案内で、本堂裏にやって来ました。
すると、そこで目にしたものは・・・扉と賽銭箱
秘仏信仰の理由には諸説ありますが、その内の1つが、『功徳の強さ』。
仏さまの功徳があまりにも協力で、人間に対して『効き過ぎる』ために、
蓋や扉で『塞いでしまった位が丁度よい』という考え方です。
しかし、そこまでしても、依然として功徳が強過ぎるこちらの御本尊は、
更に、背中向きに安置されている・・・とも言われています。
「そんな素晴らしい仏さまに、ぜひとも正面からお参りしたい。」
そんな考えで、本堂の裏にも扉と賽銭箱が設けられたのかもしれません。
尚、大寺院の本堂裏にも扉が設置されている場合がありますが、こちらは
火災などの際の、運搬・避難を考えての事です
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
今回、ごんたとたけやんはお休み。
代わって、トメサクという若者と、村のババさまが登場です。

なにもせずブラブラしているトメサクを目に留めたババさま、
「働け!」
・・・と一喝しますが、日照りで水は干上がり、作物の採れない天候では
働くことも出来ません
そんなトメサクを哀れに思ったババさま、干し芋を差し出します。
亡くなった爺さまの、「村の人の苦しみは、ワシの苦しみ」という口癖を
心に刻み込んだババさま、先の事を考えて貯蔵していた大事な干し芋を、
惜し気もなく、困っているトメサクにあげようというのです。
トメサク、そんなババさまに感謝しつつも、唾も出ないほどの日照りでは
貴重な干し芋をもらったところで、飲み込む事もできません。
・・・と、そこへフラフラとやって来た、旅のお坊さん。
力なく、倒れ込んでしまいました。
疲れ果てて声も出ないらしく、何か欲しいものがないかと二人が尋ねると
地面に指で『水』という文字を書き表すのみ。
例の干し芋を勧めようが、クッキーやカステラはどうか
(笑)と聞こうが、
返って来る言葉は、地面に記される『水』の一文字。
そこでトメサクとババさま、二山を越えて水を汲みに行きました。
そんな二人の優しい心遣いに感激した、旅のお坊さん。
持っていた錫杖で地面を突いて念じると、水が湧き出てきたそうです
この旅のお坊さんは、皆さん御想像の通り、弘法大師空海さま。
そして、この時に湧き出た泉は、西林寺の奥の院に今も残る『杖の渕』と
伝えられています。
***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
四方に川の流れる、水に恵まれた土地に位置するこちら。

元は奈良時代に開かれた、大変に歴史のある、古いお寺です。
***********
お寺の歴史に比して、大師堂は比較的新しい建物です。
そんな事から、お寺の再建等のタイミングが気になった杉本さん


こうゆうさんに質問したところ、回答は次の通り。




大きな事業ですので、景気云々という事情に左右されがちになりますが、
俗世間の流れではなく、『信仰』を軸に考えねばなりません。
『再建』という事は、元々立派な建物があった事を意味しており、それは
先人達が苦労しながら、現在の信仰の礎を築いた事を表わしています。
仏さまの御威光を存分に発揮して頂けるよう、持てる力を注ぎ込むのが、
その時機に巡り合った者の、なすべき務めです。
周囲のその様な態度や覚悟が、そのお寺の空気・雰囲気を形作ってゆき、
結果、末代まで誇れる建物として結実するのでしょう。
尚、荒廃した寺院を再建する順序は、まずは本堂から。
まず、お寺の中心である場所の復興を優先して行った上で、客殿、塀など
周辺部に着手して行くべき、との事。
本堂というお寺の中枢部の再建、間違いなく、大変な事業ではあります。
しかし、初めに最も大きな苦難を乗り越える事が出来れば、あとの苦労は
それほど大きなものとは感じないでしょう。
この事が民間に伝わって、『本家普請は立派にせよ』という風習・習慣に
繋がっているのかもしれません。
***********
本堂前にて、秘仏の御本尊・十一面観音さまへのお参りを修めた一行は、
こうゆうさんの案内で、本堂裏にやって来ました。
すると、そこで目にしたものは・・・扉と賽銭箱
秘仏信仰の理由には諸説ありますが、その内の1つが、『功徳の強さ』。
仏さまの功徳があまりにも協力で、人間に対して『効き過ぎる』ために、
蓋や扉で『塞いでしまった位が丁度よい』という考え方です。
しかし、そこまでしても、依然として功徳が強過ぎるこちらの御本尊は、
更に、背中向きに安置されている・・・とも言われています。
「そんな素晴らしい仏さまに、ぜひとも正面からお参りしたい。」

そんな考えで、本堂の裏にも扉と賽銭箱が設けられたのかもしれません。
尚、大寺院の本堂裏にも扉が設置されている場合がありますが、こちらは
火災などの際の、運搬・避難を考えての事です

***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
今回、ごんたとたけやんはお休み。
代わって、トメサクという若者と、村のババさまが登場です。


なにもせずブラブラしているトメサクを目に留めたババさま、
「働け!」
・・・と一喝しますが、日照りで水は干上がり、作物の採れない天候では
働くことも出来ません

そんなトメサクを哀れに思ったババさま、干し芋を差し出します。
亡くなった爺さまの、「村の人の苦しみは、ワシの苦しみ」という口癖を
心に刻み込んだババさま、先の事を考えて貯蔵していた大事な干し芋を、
惜し気もなく、困っているトメサクにあげようというのです。
トメサク、そんなババさまに感謝しつつも、唾も出ないほどの日照りでは
貴重な干し芋をもらったところで、飲み込む事もできません。
・・・と、そこへフラフラとやって来た、旅のお坊さん。
力なく、倒れ込んでしまいました。

疲れ果てて声も出ないらしく、何か欲しいものがないかと二人が尋ねると
地面に指で『水』という文字を書き表すのみ。
例の干し芋を勧めようが、クッキーやカステラはどうか
(笑)と聞こうが、
返って来る言葉は、地面に記される『水』の一文字。
そこでトメサクとババさま、二山を越えて水を汲みに行きました。
そんな二人の優しい心遣いに感激した、旅のお坊さん。
持っていた錫杖で地面を突いて念じると、水が湧き出てきたそうです

この旅のお坊さんは、皆さん御想像の通り、弘法大師空海さま。
そして、この時に湧き出た泉は、西林寺の奥の院に今も残る『杖の渕』と
伝えられています。
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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!

今回は、いつもと少し趣向を変えて、前回放送の浄瑠璃寺の駐車場から、
徒歩で、目的地である第四十七番札所、熊野山・八坂寺へと向かう一行

この周辺は札所が密集している地域で、田園風景を楽しみながら行くのも
よいかもしれません。
***********
途中、他の歩き遍路の方とも会いますが、収録しながら歩く3
人のようにしゃべりながら行く人はいません。
通常、罪障消滅を願って行うお遍路は、陀羅尼を唱えながら行くもので、
おしゃべりしたり、キョロキョロしながら歩くものではありません。
・・・などと言いながら行っている内に、道に迷ってしまった一行
(笑)
***********
歩いていると、視覚
・聴覚
から色々な情報が入って来ます。
鳥の声に、時には癒され、時には励まされ。
また、野に咲く花に季節を感じ。
道中、民家の庭先に梅が咲いていました。
梅の徳分を表現したのが、『花兄』という呼び名です。
厳しい冬を乗り越え、ようやく巡って来た春。
どの花よりも先に咲いて、他の花が開くのを待っている、その姿。
仄かな香りながら、遠くまで漂い、我々を導いてくれる。
昼も夜も分け隔てなく、美しい香りを放ち続ける。
・・・そんな、控えめでありながらも、しっかりとした性格を、昔の人は
『兄』と表現したのでしょう。
***********
八坂寺の『八』から連想されるのが、前回も登場した衛門三郎です。
一夜の宿と食事をお願いした空海さまを口汚く罵り、鉄鉢を八つに割ると
ほどなくして八人の子供を相次いで亡くしたという衛門三郎。
真偽については色々言われていますが、人間として一番やってはならない
『身なりで他人を判断する』という事に対する戒めを、後世に伝えるため
多少大袈裟になっている部分はあるかもしれません。
***********
八坂寺に到着した一行。
道中で地元のおばちゃんとの話に熱中するあまり、おいてけぼりになった
米裕さんも、山門前でようやく合流
この山門は、小川にかかる橋の上にあって、しかもお飾りがあるという、
大変に特徴のあるものです。
実は、こちらのお寺には役行者の影響があり、熊野権現さんをお迎えした
修験道が色濃く反映したお寺で、神社のような雰囲気も漂っています。
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
ごんた、炎に包まれたお坊さんの写真を見て、
「火あぶりの刑や!
」
・・・と大騒ぎしていますが、実はこれ、火渡りの行を写したものです。
屋外で採燈護摩を行った後、火が残った中を歩く修行です。
「心頭滅却すれば火もまた凉し。」
・・・という言葉を説明するたけやんですが、ごんたは
「武士は食わねど高楊枝。」
・・・と混同しているようです。
一般の人なら無理な事も、修行を積んだお坊さんなら、怪我することなく
行う事が出来るのです。
他にも、煮えたぎった熱湯を、頭から次々に被る『湯加持』という修行も
あるそうですが、ごんたが連想したのは、石川五右衛門だった様で
す(笑)
***********
次は、杉本さんのてくてくインタビュー・ひとへんろ。

滋賀からいらした御夫婦、奥さんのお腹には赤ちゃんがいるそうです
御主人は、かつてバスの運転手をされていたそうで、愛媛県周辺も仕事で
訪れた事があり、土地の人の人情に惹かれ、今回お参りしたそうです。
観光も兼ねての今回のお遍路。
地元の滋賀県と比べ、伊予の国は、やはり温暖だそうです。
***********
今回のお参りは八坂寺でしたが、先にも登場した衛門三郎の、亡くなった
八人の子供達にまつわる場所について、一言。
人が亡くなり、葬られた場所に祀られる『塚』。
八人の子供達が葬られた地という事で、松山市には『八塚』という地名が
今もあるそうです。
***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
徒歩で、目的地である第四十七番札所、熊野山・八坂寺へと向かう一行


この周辺は札所が密集している地域で、田園風景を楽しみながら行くのも
よいかもしれません。
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途中、他の歩き遍路の方とも会いますが、収録しながら歩く3
人のようにしゃべりながら行く人はいません。
通常、罪障消滅を願って行うお遍路は、陀羅尼を唱えながら行くもので、
おしゃべりしたり、キョロキョロしながら歩くものではありません。
・・・などと言いながら行っている内に、道に迷ってしまった一行
(笑)
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歩いていると、視覚


鳥の声に、時には癒され、時には励まされ。
また、野に咲く花に季節を感じ。
道中、民家の庭先に梅が咲いていました。
梅の徳分を表現したのが、『花兄』という呼び名です。
厳しい冬を乗り越え、ようやく巡って来た春。
どの花よりも先に咲いて、他の花が開くのを待っている、その姿。

仄かな香りながら、遠くまで漂い、我々を導いてくれる。
昼も夜も分け隔てなく、美しい香りを放ち続ける。
・・・そんな、控えめでありながらも、しっかりとした性格を、昔の人は
『兄』と表現したのでしょう。
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八坂寺の『八』から連想されるのが、前回も登場した衛門三郎です。
一夜の宿と食事をお願いした空海さまを口汚く罵り、鉄鉢を八つに割ると
ほどなくして八人の子供を相次いで亡くしたという衛門三郎。
真偽については色々言われていますが、人間として一番やってはならない
『身なりで他人を判断する』という事に対する戒めを、後世に伝えるため
多少大袈裟になっている部分はあるかもしれません。
***********
八坂寺に到着した一行。
道中で地元のおばちゃんとの話に熱中するあまり、おいてけぼりになった
米裕さんも、山門前でようやく合流

この山門は、小川にかかる橋の上にあって、しかもお飾りがあるという、
大変に特徴のあるものです。
実は、こちらのお寺には役行者の影響があり、熊野権現さんをお迎えした
修験道が色濃く反映したお寺で、神社のような雰囲気も漂っています。
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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
ごんた、炎に包まれたお坊さんの写真を見て、
「火あぶりの刑や!


・・・と大騒ぎしていますが、実はこれ、火渡りの行を写したものです。
屋外で採燈護摩を行った後、火が残った中を歩く修行です。
「心頭滅却すれば火もまた凉し。」
・・・という言葉を説明するたけやんですが、ごんたは
「武士は食わねど高楊枝。」
・・・と混同しているようです。
一般の人なら無理な事も、修行を積んだお坊さんなら、怪我することなく
行う事が出来るのです。
他にも、煮えたぎった熱湯を、頭から次々に被る『湯加持』という修行も
あるそうですが、ごんたが連想したのは、石川五右衛門だった様で
す(笑)
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次は、杉本さんのてくてくインタビュー・ひとへんろ。


滋賀からいらした御夫婦、奥さんのお腹には赤ちゃんがいるそうです

御主人は、かつてバスの運転手をされていたそうで、愛媛県周辺も仕事で
訪れた事があり、土地の人の人情に惹かれ、今回お参りしたそうです。
観光も兼ねての今回のお遍路。
地元の滋賀県と比べ、伊予の国は、やはり温暖だそうです。
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今回のお参りは八坂寺でしたが、先にも登場した衛門三郎の、亡くなった
八人の子供達にまつわる場所について、一言。
人が亡くなり、葬られた場所に祀られる『塚』。
八人の子供達が葬られた地という事で、松山市には『八塚』という地名が
今もあるそうです。
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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!

今回のお参りは第四十六番札所、医王山・浄瑠璃寺です。
こちらのお寺、院号は『養珠院』。
『珠』とは、仏さまの持つ宝を凝縮した『宝珠』を意味していますので、
「珠を磨き、養え」という、密教の根本を表した、有り難いお名前です。
山号に『医王』とくれば、御本尊はお薬師さま。
正式には『薬師瑠璃光如来』とおっしゃいます。
科学の発達した現代にあっても、お薬師さまのお名前である『瑠璃』色は
人間の手では作る事が出来ない、有り難く貴重なものです。
かつて、室戸の地で、早朝に座禅・瞑想していたこうゆうさん。
夜が明ける寸前、空と海の青が一つになる瞬間を目の当たりにされた時、
夜と昼の境目に表れ出る色が、瑠璃色なのでは?と思われたそうです
お薬師さまの住まわれる地は、東方瑠璃光浄土。
そして、そのお薬師さまの両脇には、日光・月光の両菩薩さま。
・・・そこに答えはあるようです。
***********
境内には、正岡子規の句碑があります。
『永き日や 衛門三郎 浄瑠璃寺』
衛門三郎とは、かつて、この地で勢力を振るった豪族です。
隆盛を極めていた絶頂期、巡錫中の空海さまに対する無礼が仏罰を呼び、
次々と不幸に見舞われた事から、後に改心。
空海さまに謝罪したい一心で、四国中を歩き、空海さまを追った足跡が、
現在のお遍路の基礎となりました。
『永き日』。
その意味する事とは、何なのでしょう。
衛門三郎がお遍路を始めた、遥か遠い日の事か。
その日から今日までの永きにわたり、お遍路が受け継がれている事か。
それとも、これから未来永劫、お遍路が続いてゆく事か。
過去から未来へ。
思いを巡らせるのも、なかなか味わい深いものがあります。
衛門三郎のエピソードは、十二番・焼山寺の記事を御参照下さい。
http://kikuhenro.blog.shinobi.jp/Entry/47/
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
男が二人、話し込んでいます。
どうやら、村の『三坂峠』という難所の事で、困っている様子
なんでも、隣村からせっかく鍋を買ってきても、この場所を通りかかると
誰もがその鍋を落として、割ってしまうとの事。
村にある唯一の鍋は、今年70歳になるオタキ婆さん
が、22歳の頃に、
辛うじて割らずに持ち帰る事に成功したものですが、その年代物の鍋に、
穴が開きかけているそうです。
峠道、頭上には岩の出っ張り、そして足元は湧き水と苔。
上に注意していると、足を滑らせて転んでしまう。
足元に気をつけていると、岩に頭をぶつけて、やっぱり転んでしまう。
オタキ婆さんの家に嫁いで25年になる奥さん、隣村で買った大事な鍋を
一度として無事に持ち帰った事がなく、大層悔しい思いをしている様子。
「あの出っ張りをなんとかしてくれた者には、我が娘を嫁にやる。」
・・・そんな奥さんの言葉を聞いた男衆、峠の岩を動かそうとしますが、
硬くて大きなその岩は、ビクともしません。
そんな所を通り掛った、一人のお坊さん。
岩を指差し、何事かを唱えたところ、岩は真っ二つに割れたそうです

第四十六番札所の境内には、その時に砕けた岩の半分が残っていますが、
運ぶ時についたモッコの網目から『網掛石』と呼ばれています。
岩を砕いたお坊さんは、皆さん御想像の通り、空海さま。
でも、当然ながら、娘さんを嫁にはもらいませんでした
***********
こちらのお寺、境内には仏足石や説法石など、見所が色々とありますが、
中でも有名なのが、伊吹柏槇(イブキビャクシン)。
別名を『籾大師』という、この老巨木。
お大師さまのお手植えと伝えられています。
空海さまには、お加持をして植物を元気にしたという伝説がありますが、
分かり易い形で、仏さまのみ教えを広めようとされたのでしょう。
***********
浄瑠璃寺の開基は、行基菩薩さまです。
当時は東大寺の開眼供養の頃で、その功徳が地方にも行き渡るようにと、
各地を巡錫し、お寺を建立なさったのだそうです。
大きな事業を行うに当たっては、寄付を募るために各地を奔走する事が、
現代では当たり前になっています。
遠い古代の考え方。
見直したいものです
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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
こちらのお寺、院号は『養珠院』。
『珠』とは、仏さまの持つ宝を凝縮した『宝珠』を意味していますので、
「珠を磨き、養え」という、密教の根本を表した、有り難いお名前です。
山号に『医王』とくれば、御本尊はお薬師さま。
正式には『薬師瑠璃光如来』とおっしゃいます。
科学の発達した現代にあっても、お薬師さまのお名前である『瑠璃』色は
人間の手では作る事が出来ない、有り難く貴重なものです。
かつて、室戸の地で、早朝に座禅・瞑想していたこうゆうさん。
夜が明ける寸前、空と海の青が一つになる瞬間を目の当たりにされた時、
夜と昼の境目に表れ出る色が、瑠璃色なのでは?と思われたそうです

お薬師さまの住まわれる地は、東方瑠璃光浄土。
そして、そのお薬師さまの両脇には、日光・月光の両菩薩さま。
・・・そこに答えはあるようです。
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境内には、正岡子規の句碑があります。
『永き日や 衛門三郎 浄瑠璃寺』
衛門三郎とは、かつて、この地で勢力を振るった豪族です。
隆盛を極めていた絶頂期、巡錫中の空海さまに対する無礼が仏罰を呼び、
次々と不幸に見舞われた事から、後に改心。
空海さまに謝罪したい一心で、四国中を歩き、空海さまを追った足跡が、
現在のお遍路の基礎となりました。
『永き日』。
その意味する事とは、何なのでしょう。
衛門三郎がお遍路を始めた、遥か遠い日の事か。
その日から今日までの永きにわたり、お遍路が受け継がれている事か。
それとも、これから未来永劫、お遍路が続いてゆく事か。
過去から未来へ。
思いを巡らせるのも、なかなか味わい深いものがあります。
衛門三郎のエピソードは、十二番・焼山寺の記事を御参照下さい。
http://kikuhenro.blog.shinobi.jp/Entry/47/
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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
男が二人、話し込んでいます。
どうやら、村の『三坂峠』という難所の事で、困っている様子

なんでも、隣村からせっかく鍋を買ってきても、この場所を通りかかると
誰もがその鍋を落として、割ってしまうとの事。
村にある唯一の鍋は、今年70歳になるオタキ婆さん

辛うじて割らずに持ち帰る事に成功したものですが、その年代物の鍋に、
穴が開きかけているそうです。
峠道、頭上には岩の出っ張り、そして足元は湧き水と苔。
上に注意していると、足を滑らせて転んでしまう。
足元に気をつけていると、岩に頭をぶつけて、やっぱり転んでしまう。
オタキ婆さんの家に嫁いで25年になる奥さん、隣村で買った大事な鍋を
一度として無事に持ち帰った事がなく、大層悔しい思いをしている様子。
「あの出っ張りをなんとかしてくれた者には、我が娘を嫁にやる。」
・・・そんな奥さんの言葉を聞いた男衆、峠の岩を動かそうとしますが、
硬くて大きなその岩は、ビクともしません。
そんな所を通り掛った、一人のお坊さん。
岩を指差し、何事かを唱えたところ、岩は真っ二つに割れたそうです


第四十六番札所の境内には、その時に砕けた岩の半分が残っていますが、
運ぶ時についたモッコの網目から『網掛石』と呼ばれています。
岩を砕いたお坊さんは、皆さん御想像の通り、空海さま。
でも、当然ながら、娘さんを嫁にはもらいませんでした

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こちらのお寺、境内には仏足石や説法石など、見所が色々とありますが、
中でも有名なのが、伊吹柏槇(イブキビャクシン)。
別名を『籾大師』という、この老巨木。
お大師さまのお手植えと伝えられています。
空海さまには、お加持をして植物を元気にしたという伝説がありますが、
分かり易い形で、仏さまのみ教えを広めようとされたのでしょう。
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浄瑠璃寺の開基は、行基菩薩さまです。
当時は東大寺の開眼供養の頃で、その功徳が地方にも行き渡るようにと、
各地を巡錫し、お寺を建立なさったのだそうです。
大きな事業を行うに当たっては、寄付を募るために各地を奔走する事が、
現代では当たり前になっています。
遠い古代の考え方。
見直したいものです

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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
