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2025/04/21 17:25 |
【50番】東山・繁多寺《放送内容》
今回のお参りは第五十番札所、東山・繁多寺です。

世間的には、『数にこだわるな』と言われる場面もよくあります。

しかし、やはり『50番』という、節目の数字。
『ここまでやって来た』という充実感と共に、結願に向けて決意を新たに
心を奮い立たせるものがあります。

四国遍路は、各札所に番号をふり、順を追って参拝する仕組みにした事で
修行の段階が分かると同時に、巡礼者の目標・動機づけにもなっており、
それが、今日まで栄えている理由なのかもしれません。

***********

なだらかな坂を上った、住宅地の中に位置するこちらのお寺。
眼下には松山の市街地が広がり、すばらしい眺めです。

天平時代、行基さまが開かれた当時、天皇より多くの旗を賜った事から、
元々は『旗多寺』という寺号だったのですが、時代の移り変わりに伴い、
その音と、繁栄を意味する『繁』の文字が使われる様になりました。

その一方、地元では『畑寺』と呼ばれ、親しまれているこちら。
畑とは、神仏への供物を作る場所でもあります。

いずれの呼び名も、経済の流れを表わした、深い意味が含まれています。
(因みに『経済』という言葉も、仏教用語です。)

***********

こちらのお寺は、素晴らしい音色を聴かせてくれる釣り鐘が有名ですが
力を込めて、大きな音を響かせるのが正しい鐘の撞き方か、と問われれば
必ずしも、そうとは言えません。

お寺は修行の場、
他の参拝者もおり、また鐘を撞く本人も、修行をしている身です。

周囲への配慮を怠らず、他の参拝者の邪魔にならぬ様に、心を配りながら
美しい音を響かせるのが、修行者としてのあるべき姿勢でしょう。

この釣り鐘、三百年前に法雲律師が、貧富の隔てなく民衆から浄財を募り
皆の願いを刻み込んで、作り上げたものです。

『貧富の隔てなく』と聞くと、現代人からすれば、富める者も貧しい者も
同じ額の財貨を提供した、と捉えたくなりますが、そうではありません。

富める者は豊かなりに、また貧しい者は貧しいなりに、それぞれの立場で
出来うる限りの力を尽くして、皆の幸福を祈った事を意味しています。

浄財、寄付、寄進・・・
これらの意味を突き詰めると、『喜捨』という言葉になります。


「『喜んで捨てる』事など、出来るものか!」

・・・そんなことを言う人もいます。

しかし考えてみれば、自分の子や孫、身内に対して、何の見返りも求めず
色々な物を買ったり、与えたりという事は、誰もが行っています。

ならば、もう少し範囲を広げて、自分が生きている世間や社会のためにも
同じ事は出来るのではないでしょうか?

***********

さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。

日照り続きで、水は枯れ、作物も採れない
弱い者から順番に、バタバタと倒れて行く村人達。

・・・そんな有様の毎日を嘆くキンゾウとトヨゾウの所へ、村の御住職が
やって来ます。

「『先ず自分が助かりたい』という貪りの心を捨て、皆が共に助かって、
ニコニコと穏やかに暮らせる事を考えよ。」


そう言い遺した覚了住職。
掘った穴に籠り、命懸けの雨乞いを始めます。

噂は村人達に広まり、『自分のため』ではなく、『皆のため』の思いで、
全員が、一心に拝み始めました

覚了住職の読経の声が途絶えて、21日後。
一天俄にかき曇り、雷鳴が轟き、やがて雨が降り始めました。
尊い覚了住職の命と引き換えに、村人達は助かったのです

・・・しかし、彼等に笑顔はありませんでした

自分達の身勝手で、偉いお坊さんを亡くしてしまった村人達。

「まず先に、人様から。」
・・・村人達は、譲り合いの心を大切にする事を誓い合いました。

繁多寺には、村人から覚了住職への感謝の気持ちを表わした『聖人塚』
残されています。

***********

大師堂の中には、空海さまの座像が安置されていますが、その大師堂と、
本堂の間には、修行大師像。

「見守って下さっている。」という事を体感出来ます。

ありそうでありながら、他のお寺では見かけない配置。
繁多寺へお参りの際には、足を止めて、味わって頂きたいと思います

***********

・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。

詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
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2009/05/03 20:44 | Comments(2) | TrackBack() | 放送内容
【49番】西林山・浄土寺《放送内容》
今回のお参りは第四十九番札所、西林山・浄土寺です。

松山市内の住宅地に位置するこちらのお寺、立派な山門を守る仁王さまは
その迫力ある表情まで、はっきりと拝む事が出来ます。

天平から平安にかけての特徴である、地を這うような低い造りの屋根は、
とても上品で、米裕さん好みだそうです


因みに、鎌倉期のお寺は、武家社会を反映して、勢いや威厳が好まれて、
屋根が高く、装飾も豪華になるそうです。

***********

現在は真言宗の豊山派に属するこちらのお寺、奈良時代に開かれてから、
空海さまが、お釈迦さまを御本尊としてお迎えされた後、浄土系の高僧を
3人お祀りされている事から、院号を『三蔵院』と称するのだそうです。


本堂の背後には山があり、理想的な立地。
最盛期は66坊の末寺を抱える、一大伽藍を誇ったお寺だった
ようです。

***********

山門の仁王さまのお姿を観た杉本さん、気になった事が2つ

 < 質問・その1 >
  現在でも、この様な仏像を作る人はいるのですか?

 < 答え >
  勿論、現在でもそういった職業の方はいらっしゃって、木や石を刻んで、
  『像』を作る人が『仏師』さん、布や紙に描く人が『仏画師』さんです。

  『仏さまを生み出す』という、とても尊い仕事ですので、中には本山から
  『大仏師』というお名前を授かる方もいらっしゃるそうです。

 < 質問・その2 >
  各札所で見かける仁王さまには、決まったモデルはあるのですか?

 < 答え >
  それぞれの仏さまは、性格やお役目によって、決まった持物や印相があり
  それを事細かく解説した書物があり、それに基づいて仏像が作られます。

ただ、文字での説明だけなので、仏師さんの解釈や、時代の流行などから
同じ仏さまでも、それぞれのお寺によって、微妙な個性があるのです。

因みに、空海さまは入定なさる前に『御遺告(ごゆいごう)』を残されて、

「私の姿が見えなくなっても、嘆き、悲しむ事はない。木や石に刻まれ、
絵に描かれた姿を、私だと思って念じれば、そこに宿って皆を助ける。」

・・・とおっしゃっています。

***********

さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。

ここは伊予の国、即ち菩提の道場
菩提とは、悟りの境地。

・・・という事で、何やら悟ったらしいごんた。

山門に所構わず貼り付けられた、参拝者の名前の記された手拭や千社札。
破れたり、画鋲で留められたり・・・
有り難いお寺を、汚しているだけの様に思えます。

名前を残す事で、御本尊さまにいつも見て頂き、ずっとお陰を頂ける。

・・・そんな、浅ましい思いから出た、誤った考えに基づく風習ですが、
仏さまとは、分け隔てのない世界にお住まいのお方。
名前を残す、残さないに関係なく、キチンと見て下さっています。

名前を貼り付ける・・・他人を押しのけて『自分だけにお陰を』という、
『貪る心』。

その他にも、札を貼り付けて木材の寿命を縮める『殺生』の罪。
山門を汚す事で、他の参拝者の信仰を妨げる罪。

仏教徒の守らねばならない『十善戒』が、悉く破られているという事実が
分かります。

人間とは、自己顕示欲の塊です。
でも、そういった浅薄な自分自身から一歩引いて、今日のごんたの様に、
物事を冷静に見る目を持つ事が重要です

お寺は『修行の場』。

千社札を貼る事だけに気を取られ、肝心のお参りが疎かになっている輩に
『八十八箇所を歩いた』などと言う資格はありません。

『全ての人が、気持ち良くお参り出来る様に』という心掛けでのお参り、
それが即ち、修行につながって行きます。

たけやんの言う通り、お参りの際に、雑巾がけや草引きを行うという事も
立派な修行でしょう

***********

日本では、立派な木には『神が宿る』とされてきました。

海外から入って来た新たな『仏教』。
民衆に受け入れられるには、様々な苦労・苦難があった事と思います。

そんな、後発の教えの象徴である仏像を『神木』に刻む。

・・・ここに、日本の、神と仏への信仰の形が定まった、という考え方も
あるそうです。

前述した通り、空海さまは、自身のお姿を残す事を肯定されました。
しかしその一方で、偶像崇拝を否定する宗派もあります。

偉大な方が亡くなると、その方を慕う人各々に理想のイメージがあって、
それが時には、争いの元にもなります。

お釈迦が、入滅される前に心配なさっていたのは、正にその部分の事で、
だからこそ、仏教としての教義がキチンとした形で体系化されるまでは、
御自身のお姿を刻み、描く事を禁じられたのです

その事からすると、弘法大師空海さまのお考えは、画期的を通り越して、
お釈迦さまのみ教えに反するのではないか、とさえ感じてしまいます。

しかし、空海さまの活躍された時代、仏教は広く民衆に受け入れられて、
しっかりと定まったものとなっていました。

しかも、どの様なお姿を残せばよいのかというお弟子さんの疑問に対し、
「この姿、この形だけを残し、念じなさいとおっしゃって、そのお姿を
描かせたそうです。

現代まで、お大師さまの仏画は全て、その『正御影』が唯一のモデルで、
他のポーズやアングルの画は存在しません。

その意味で、後世の弟子や信者達の争いを未然に防止している訳ですから
空海さまの行動は画期的に見えて、実はお釈迦さまのお考えに反する所は
どこにもない事が分かります

***********

・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。

詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!

2009/04/19 15:24 | Comments(0) | TrackBack() | 放送内容
【48番】清滝山・西林寺《放送内容》
今回のお参りは第四十八番札所、清滝山・西林寺です。

四方に川の流れる、水に恵まれた土地に位置するこちら。
元は奈良時代に開かれた、大変に歴史のある、古いお寺です。

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お寺の歴史に比して、大師堂は比較的新しい建物です。

そんな事から、お寺の再建等のタイミングが気になった杉本さん
こうゆうさんに質問したところ、回答は次の通り。

  そのお寺の歴史などから、独自に決める場合
  祖山の記念行事などに合わせて行う場合

大きな事業ですので、景気云々という事情に左右されがちになりますが、
俗世間の流れではなく、『信仰』を軸に考えねばなりません。

『再建』という事は、元々立派な建物があった事を意味しており、それは
先人達が苦労しながら、現在の信仰の礎を築いた事を表わしています。

仏さまの御威光を存分に発揮して頂けるよう、持てる力を注ぎ込むのが、
その時機に巡り合った者の、なすべき務めです。

周囲のその様な態度や覚悟が、そのお寺の空気・雰囲気を形作ってゆき、
結果、末代まで誇れる建物として結実するのでしょう。


 尚、荒廃した寺院を再建する順序は、まずは本堂から。

まず、お寺の中心である場所の復興を優先して行った上で、客殿、塀など
周辺部に着手して行くべき、との事。

本堂というお寺の中枢部の再建、間違いなく、大変な事業ではあります。
しかし、初めに最も大きな苦難を乗り越える事が出来れば、あとの苦労は
それほど大きなものとは感じないでしょう。

この事が民間に伝わって、『本家普請は立派にせよ』という風習・習慣に
繋がっているのかもしれません。

***********


本堂前にて、秘仏の御本尊・十一面観音さまへのお参りを修めた一行は、
こうゆうさんの案内で、本堂裏にやって来ました。

すると、そこで目にしたものは・・・扉と賽銭箱

秘仏信仰の理由には諸説ありますが、その内の1つが、『功徳の強さ』。

仏さまの功徳があまりにも協力で、人間に対して『効き過ぎる』ために、
蓋や扉で『塞いでしまった位が丁度よい』という考え方です。

しかし、そこまでしても、依然として功徳が強過ぎるこちらの御本尊は、
更に、背中向きに安置されている・・・とも言われています。

「そんな素晴らしい仏さまに、ぜひとも正面からお参りしたい。」

そんな考えで、本堂の裏にも扉と賽銭箱が設けられたのかもしれません。

尚、大寺院の本堂裏にも扉が設置されている場合がありますが、こちらは
火災などの際の、運搬・避難を考えての事です

***********

さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。

今回、ごんたとたけやんはお休み。
代わって、トメサクという若者と、村のババさまが登場です。

なにもせずブラブラしているトメサクを目に留めたババさま、

「働け!」

・・・と一喝しますが、日照りで水は干上がり、作物の採れない天候では
働くことも出来ません

そんなトメサクを哀れに思ったババさま、干し芋を差し出します。

亡くなった爺さまの、「村の人の苦しみは、ワシの苦しみ」という口癖を
心に刻み込んだババさま、先の事を考えて貯蔵していた大事な干し芋を、
惜し気もなく、困っているトメサクにあげようというのです。

トメサク、そんなババさまに感謝しつつも、唾も出ないほどの日照りでは
貴重な干し芋をもらったところで、飲み込む事もできません。

・・・と、そこへフラフラとやって来た、旅のお坊さん。
力なく、倒れ込んでしまいました。

疲れ果てて声も出ないらしく、何か欲しいものがないかと二人が尋ねると
地面に指で『水』という文字を書き表すのみ。

例の干し芋を勧めようが、クッキーやカステラはどうか
(笑)と聞こうが、
返って来る言葉は、地面に記される『水』の一文字。

そこでトメサクとババさま、二山を越えて水を汲みに行きました。

そんな二人の優しい心遣いに感激した、旅のお坊さん。
持っていた錫杖で地面を突いて念じると、水が湧き出てきたそうです

この旅のお坊さんは、皆さん御想像の通り、弘法大師空海さま。

そして、この時に湧き出た泉は、西林寺の奥の院に今も残る『杖の渕』
伝えられています。

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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。

詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!

2009/04/07 23:56 | Comments(0) | TrackBack() | 放送内容
【47番】熊野山・八坂寺《放送内容》
今回は、いつもと少し趣向を変えて、前回放送の浄瑠璃寺の駐車場から、
徒歩で、目的地である第四十七番札所、熊野山・八坂寺へと向かう一行

この周辺は札所が密集している地域で、田園風景を楽しみながら行くのも
よいかもしれません。


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途中、他の歩き遍路の方とも会いますが、収録しながら歩く3
人のようにしゃべりながら行く人はいません。

通常、罪障消滅を願って行うお遍路は、陀羅尼を唱えながら行くもので、
おしゃべりしたり、キョロキョロしながら歩くものではありません。

・・・などと言いながら行っている内に、道に迷ってしまった一行
(笑)

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歩いていると、視覚聴覚から色々な情報が入って来ます。

鳥の声に、時には癒され、時には励まされ。
また、野に咲く花に季節を感じ。

道中、民家の庭先に梅が咲いていました。

梅の徳分を表現したのが、『花兄』という呼び名です。

厳しい冬を乗り越え、ようやく巡って来た春。
どの花よりも先に咲いて、他の花が開くのを待っている、その姿。

仄かな香りながら、遠くまで漂い、我々を導いてくれる。

昼も夜も分け隔てなく、美しい香りを放ち続ける。

・・・そんな、控えめでありながらも、しっかりとした性格を、昔の人は
『兄』と表現したのでしょう。

***********

八坂寺の『八』から連想されるのが、前回も登場した衛門三郎です。

一夜の宿と食事をお願いした空海さまを口汚く罵り、鉄鉢を八つに割ると
ほどなくして八人の子供を相次いで亡くしたという衛門三郎。

真偽については色々言われていますが、人間として一番やってはならない
『身なりで他人を判断する』という事に対する戒め
を、後世に伝えるため
多少大袈裟になっている部分はあるかもしれません。

***********

八坂寺に到着した一行。

道中で地元のおばちゃんとの話に熱中するあまり、おいてけぼりになった
米裕さんも、山門前でようやく合流

この山門は、小川にかかる橋の上にあって、しかもお飾りがあるという、
大変に特徴のあるものです。

実は、こちらのお寺には役行者の影響があり、熊野権現さんをお迎えした
修験道が色濃く反映したお寺で、神社のような雰囲気も漂っています。

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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。

ごんた、炎に包まれたお坊さんの写真を見て、

「火あぶりの刑や!

・・・と大騒ぎしていますが、実はこれ、火渡りの行を写したものです。
屋外で採燈護摩を行った後、火が残った中を歩く修行です。

「心頭滅却すれば火もまた凉し。」

・・・という言葉を説明するたけやんですが、ごんたは

「武士は食わねど高楊枝。」

・・・と混同しているようです。

一般の人なら無理な事も、修行を積んだお坊さんなら、怪我することなく
行う事が出来るのです。

他にも、煮えたぎった熱湯を、頭から次々に被る『湯加持』という修行も
あるそうですが、ごんたが連想したのは、石川五右衛門だった様で
す(笑)

***********

次は、杉本さんのてくてくインタビュー・ひとへんろ。

滋賀からいらした御夫婦、奥さんのお腹には赤ちゃんがいるそうです

御主人は、かつてバスの運転手をされていたそうで、愛媛県周辺も仕事で
訪れた事があり、土地の人の人情に惹かれ、今回お参りしたそうです。

観光も兼ねての今回のお遍路。
地元の滋賀県と比べ、伊予の国は、やはり温暖だそうです。

***********

今回のお参りは八坂寺でしたが、先にも登場した衛門三郎の、亡くなった
八人の子供達にまつわる場所について、一言。

人が亡くなり、葬られた場所に祀られる『塚』。
八人の子供達が葬られた地という事で、松山市には『八塚』という地名が
今もあるそうです。

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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。

詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!

2009/03/22 22:26 | Comments(0) | TrackBack() | 放送内容
【46番】医王山・浄瑠璃寺《放送内容》
今回のお参りは第四十六番札所、医王山・浄瑠璃寺です。

こちらのお寺、院号は『養珠院』
『珠』とは、仏さまの持つ宝を凝縮した『宝珠』を意味していますので、
「珠を磨き、養え」という、密教の根本を表した、有り難いお名前です。

山号に『医王』とくれば、御本尊はお薬師さま。
正式には『薬師瑠璃光如来』とおっしゃいます。

科学の発達した現代にあっても、お薬師さまのお名前である『瑠璃』色は
人間の手では作る事が出来ない、有り難く貴重なものです。

かつて、室戸の地で、早朝に座禅・瞑想していたこうゆうさん。
夜が明ける寸前、空と海の青が一つになる瞬間を目の当たりにされた時、
夜と昼の境目に表れ出る色が、瑠璃色なのでは?と思われたそうです

お薬師さまの住まわれる地は、東方瑠璃光浄土。
そして、そのお薬師さまの両脇には、日光・月光の両菩薩さま。

・・・そこに答えはあるようです。

***********

境内には、正岡子規の句碑があります。

『永き日や 衛門三郎 浄瑠璃寺』

衛門三郎とは、かつて、この地で勢力を振るった豪族です。
隆盛を極めていた絶頂期、巡錫中の空海さまに対する無礼が仏罰を呼び、
次々と不幸に見舞われた事から、後に改心。

空海さまに謝罪したい一心で、四国中を歩き、空海さまを追った足跡が、
現在のお遍路の基礎となりました。

『永き日』。
その意味する事とは、何なのでしょう。

衛門三郎がお遍路を始めた、遥か遠い日の事か。
その日から今日までの永きにわたり、お遍路が受け継がれている事か。
それとも、これから未来永劫、お遍路が続いてゆく事か。

過去から未来へ。
思いを巡らせるのも、なかなか味わい深いものがあります。

衛門三郎のエピソードは、十二番・焼山寺の記事を御参照下さい。
http://kikuhenro.blog.shinobi.jp/Entry/47/

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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。

男が二人、話し込んでいます。
どうやら、村の『三坂峠』という難所の事で、困っている様子


なんでも、隣村からせっかく鍋を買ってきても、この場所を通りかかると
誰もがその鍋を落として、割ってしまうとの事。

村にある唯一の鍋は、今年70歳になるオタキ婆さんが、22歳の頃に、
辛うじて割らずに持ち帰る事に成功したものですが、その年代物の鍋に、
穴が開きかけているそうです。

峠道、頭上には岩の出っ張り、そして足元は湧き水と苔。

上に注意していると、足を滑らせて転んでしまう。
足元に気をつけていると、岩に頭をぶつけて、やっぱり転んでしまう。

オタキ婆さんの家に嫁いで25年になる奥さん、隣村で買った大事な鍋を
一度として無事に持ち帰った事がなく、大層悔しい思いをしている様子。

「あの出っ張りをなんとかしてくれた者には、我が娘を嫁にやる。」

・・・そんな奥さんの言葉を聞いた男衆、峠の岩を動かそうとしますが、
硬くて大きなその岩は、ビクともしません。

そんな所を通り掛った、一人のお坊さん。
岩を指差し、何事かを唱えたところ、岩は真っ二つに割れたそうです

第四十六番札所の境内には、その時に砕けた岩の半分が残っていますが、
運ぶ時についたモッコの網目から『網掛石』と呼ばれています。

岩を砕いたお坊さんは、皆さん御想像の通り、空海さま。
でも、当然ながら、娘さんを嫁にはもらいませんでした

***********

こちらのお寺、境内には仏足石や説法石など、見所が色々とありますが、
中でも有名なのが、伊吹柏槇(イブキビャクシン)。

別名を『籾大師』という、この老巨木。
お大師さまのお手植えと伝えられています。

空海さまには、お加持をして植物を元気にしたという伝説がありますが、
分かり易い形で、仏さまのみ教えを広めようとされたのでしょう。

***********

浄瑠璃寺の開基は、行基菩薩さまです。

当時は東大寺の開眼供養の頃で、その功徳が地方にも行き渡るようにと、
各地を巡錫し、お寺を建立なさったのだそうです。

大きな事業を行うに当たっては、寄付を募るために各地を奔走する事が、
現代では当たり前になっています。

遠い古代の考え方。
見直したいものです


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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。

詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!

2009/03/07 22:35 | Comments(0) | TrackBack() | 放送内容

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