今回のお参りは第五十五番札所、別宮山・南光坊です。
交通量の多い町中に位置するこちらのお寺。
本堂と大師堂の間に駐車場が挟まれているという、不思議な造りです

***********
周囲には他教団の道場や神社も多く、一体どこまでが南光坊なのかという
混沌とした立地ですが、これは明治政府の廃仏毀釈に端を発する混乱が、
そのまま現代に持ち込まれている感があります。
尚、南光坊の『坊』とは、お寺より小規模の、み仏のいらっしゃる場所を
意味しますが、『坊を守る主』が『坊主』の語源です。
こちらの御本尊は、全国的にも恐らく例が無い『大通智勝仏』さまですが
この仏さまは、今治沖の大三島からお迎えした明神さまの本地仏です。
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
かつてこの地には樹齢三百年超という楠の大木があり、四方に張った枝は
六百坪という広さの土地を覆い尽くしていたため周囲は真昼でも薄暗く、
別宮の本殿や南光坊の金毘羅堂も、この枝の下にありました。
百年程前、オナオ・オサオ・オソデという三匹の雌狸がこの森に住み着き
時々化けては、村人や参拝者を驚かせていたそうです。
困った村人から相談を受けた天野快道住職は、イタズラを止めるようにと
三匹を諭し、彼女達のために楠を一本与えて各々に祠(ほこら)を建て、
村人達がそこに食べ物をお供えするようになると、それ以降、三匹による
イタズラはなくなりました。
ある日、楠の枝が金毘羅堂の屋根にかかっているのを見つけた村人。
皆と相談して、枝を切る事にしました。
次の日、長梯子を立てかけて、枝を切ろうと上まで昇ると・・・
枝は、屋根にかかっていません。
一晩で六尺も伸びたというその楠の噂は人々の間に広まり、御神木として
以後、信仰を集める事となります。
昭和になり、空襲を受けて焼けてしまってから後、新たに楠が移植され、
祠も新しく建てられました。
オナオ大明神、オサオ大明神、オソデ大明神は今も多くの人に親しまれ、
願掛けに訪れる参拝者もたくさんいるそうです。
尚、三つの内、オソデ大明神の祠だけが、戦前から残るものです。
***********
御本尊・大通智勝仏さまの御真言は、本来は非常に難解なものなのですが
こういった馴染みのあまりない仏さまや神さまを拝む場合は、代替として
『南無+(仏さま・神さまのお名前)』という簡略な唱え方もあります。
御詠歌は
『このところ三島に夢のさめぬれば別宮とてもおなじ垂迹』。
人々の信仰を集めていた、沖合いの大三島の神さま。
参拝するには不便なため別宮としてお迎えした訳ですが、だからといって
功徳が本宮と変わるところがあるわけではありません。
だからこそ、そこを慕って他の神さまも、大勢集って来られたという事を
現在の南光坊周辺の様子から、窺い知る事が出来ます。
***********
金毘羅堂と薬師堂の間には、立派な五輪塔がありますが、これは、南光坊
中興の祖・天野快道僧正のお墓です。
『天野』姓は、瀬戸内海に浮かぶ島々に多く見られる苗字だそうですが、
こうゆうさんの師匠であるお爺さまも、弓削島の御出身だそうです。
瀬戸内の島々と四国、そして本州
昔は交通手段も限られており、互いに分断されているような印象ですが、
実は、古来より尾道~今治ルートの文化交流は、盛んだったそうです。
御自身が、村上水軍の末裔とおっしゃった、こうゆうさんのお爺さま。
そんな事からこうゆうさん、伊予の国、そして天野快道僧正との繋がりを
強く感じられている様です
***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
交通量の多い町中に位置するこちらのお寺。
本堂と大師堂の間に駐車場が挟まれているという、不思議な造りです


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周囲には他教団の道場や神社も多く、一体どこまでが南光坊なのかという
混沌とした立地ですが、これは明治政府の廃仏毀釈に端を発する混乱が、
そのまま現代に持ち込まれている感があります。
尚、南光坊の『坊』とは、お寺より小規模の、み仏のいらっしゃる場所を
意味しますが、『坊を守る主』が『坊主』の語源です。
こちらの御本尊は、全国的にも恐らく例が無い『大通智勝仏』さまですが
この仏さまは、今治沖の大三島からお迎えした明神さまの本地仏です。
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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
かつてこの地には樹齢三百年超という楠の大木があり、四方に張った枝は
六百坪という広さの土地を覆い尽くしていたため周囲は真昼でも薄暗く、
別宮の本殿や南光坊の金毘羅堂も、この枝の下にありました。
百年程前、オナオ・オサオ・オソデという三匹の雌狸がこの森に住み着き
時々化けては、村人や参拝者を驚かせていたそうです。
困った村人から相談を受けた天野快道住職は、イタズラを止めるようにと
三匹を諭し、彼女達のために楠を一本与えて各々に祠(ほこら)を建て、
村人達がそこに食べ物をお供えするようになると、それ以降、三匹による
イタズラはなくなりました。
ある日、楠の枝が金毘羅堂の屋根にかかっているのを見つけた村人。
皆と相談して、枝を切る事にしました。
次の日、長梯子を立てかけて、枝を切ろうと上まで昇ると・・・
枝は、屋根にかかっていません。
一晩で六尺も伸びたというその楠の噂は人々の間に広まり、御神木として
以後、信仰を集める事となります。
昭和になり、空襲を受けて焼けてしまってから後、新たに楠が移植され、
祠も新しく建てられました。
オナオ大明神、オサオ大明神、オソデ大明神は今も多くの人に親しまれ、
願掛けに訪れる参拝者もたくさんいるそうです。
尚、三つの内、オソデ大明神の祠だけが、戦前から残るものです。
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御本尊・大通智勝仏さまの御真言は、本来は非常に難解なものなのですが
こういった馴染みのあまりない仏さまや神さまを拝む場合は、代替として
『南無+(仏さま・神さまのお名前)』という簡略な唱え方もあります。
御詠歌は
『このところ三島に夢のさめぬれば別宮とてもおなじ垂迹』。
人々の信仰を集めていた、沖合いの大三島の神さま。
参拝するには不便なため別宮としてお迎えした訳ですが、だからといって
功徳が本宮と変わるところがあるわけではありません。
だからこそ、そこを慕って他の神さまも、大勢集って来られたという事を
現在の南光坊周辺の様子から、窺い知る事が出来ます。
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金毘羅堂と薬師堂の間には、立派な五輪塔がありますが、これは、南光坊
中興の祖・天野快道僧正のお墓です。
『天野』姓は、瀬戸内海に浮かぶ島々に多く見られる苗字だそうですが、
こうゆうさんの師匠であるお爺さまも、弓削島の御出身だそうです。
瀬戸内の島々と四国、そして本州

昔は交通手段も限られており、互いに分断されているような印象ですが、
実は、古来より尾道~今治ルートの文化交流は、盛んだったそうです。
御自身が、村上水軍の末裔とおっしゃった、こうゆうさんのお爺さま。
そんな事からこうゆうさん、伊予の国、そして天野快道僧正との繋がりを
強く感じられている様です

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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!

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今回のお参りは第五十四番札所、近見山・延命寺です。
町中からごく近い、ゆったりとした丘の上にあるこちらのお寺。
天平年間、行基菩薩さまにより開かれた後、衰退した時期がありましたが
時の天皇の勅願により、空海さまによって復興されました。
***********
こちら、院号を『宝鐘院』といいますが、かつては『不動院』でした。
その名の通り、御本尊は行基菩薩さま作のお不動さまだったわけですが、
院号が変わったという事は、その御本尊にも交代があったのかと言えば、
そうでもないようです。
お四国では敵役的な長曽我部氏ですが、こちらにもその軍勢が押し寄せ、
軍資金として梵鐘を略奪したものの、海に浮かべて運搬するその途中に、
運ばれるのを嫌がる梵鐘が、自ら海に飛び込んだという伝説があります。
その様な事から、院号が変更されたのでは?
・・・そんな推測も成り立つわけです。
***********
極彩色の仁王さまが立つ山門は、明治の廃藩置県に伴って、取り壊された
お城から移築されたもののようです。
奥にある釣り鐘は、自ら海に身を投げた、あの梵鐘か!?
・・・そんな期待もあって確認したところ、昭和五十二年に鋳造された、
新しいものでした。
しかし、試しに杉本さんが撞くと、その音色、そして余韻は素晴らしく、
鳴った瞬間に、小鳥達のさえずりも盛んになりました。

近年の釣り鐘の色に感動する事はないこうゆうさんも、この鐘の音色には
シビレた様子です
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
農作業に精を出す農民と、庄屋の孫兵衛さんが話をしています。
日照り続きで作物が採れないから、年貢の負担が重い事。
五年に一度の、用水池の修繕工事の当番の事。
農民達の苦しい生活を目の当たりにしている孫兵衛さん、工事の前の夜に
彼等のために宴を催すと共に、何やら一計を案じた様子で、
「明日の工事には、竹筒にお粥を入れて来るように。
」
・・・と、皆に言い伝えます。
明けて、工事の当日の、昼の休憩。
隣の地区の人夫たちは、固い握り飯を頬張っています。
一方、孫兵衛さんの家で御馳走になった農民たちは、不審に思いながらも
言いつけをきちんと守り、昼食に竹筒のお粥をすすっていました。
そんな様子を見た、代官所の役人。
フラフラの農民たちを見て、竹筒に入っているのは酒なのではないかと、
庄屋の孫兵衛さんを厳しく追及します。
そこで、孫兵衛さん。
日照り続きで作物も出来ず、お粥で空腹を紛らわせている事を告げます。
気の毒に思った役人。
その様子をお殿さまに報告したところ、その年の年貢を軽くするお達しが
あったそうです。
第五十四番札所、延命寺の境内には、享保の大飢饉から農民たちを救った
越智孫兵衛さんのお墓が、ひっそりと佇んでいます。
***********
お参りを修めて駐車場へ戻った一行は、そこでも、釣り鐘を目にします
1704年に鋳造されたという、有形文化財の釣り鐘。
年代から判断して、長曽我部軍が攻め入った後に造られたものですから、
やはりこれも、海に沈んだという、あの鐘とは別物のようです。
しかし第二次大戦中、軍部によって、全国の寺院に金属類を供出するよう
命令があったはずですが、お寺の縁起などが詳しく刻まれたこの梵鐘を、
危険を顧みず、守った人たちがいたわけです。
苦難の時代に、一番大事なものを守り通す、尊い姿勢。
言葉にするのは簡単ですが、実践となると、本当に困難な事でしょう。
そんな先人たちの御苦労や献身があったからこそ、現代に生きる我々が、
今ここで、その貴重な品々を味わう事が出来るのです。
***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
町中からごく近い、ゆったりとした丘の上にあるこちらのお寺。
天平年間、行基菩薩さまにより開かれた後、衰退した時期がありましたが
時の天皇の勅願により、空海さまによって復興されました。
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こちら、院号を『宝鐘院』といいますが、かつては『不動院』でした。
その名の通り、御本尊は行基菩薩さま作のお不動さまだったわけですが、
院号が変わったという事は、その御本尊にも交代があったのかと言えば、
そうでもないようです。
お四国では敵役的な長曽我部氏ですが、こちらにもその軍勢が押し寄せ、
軍資金として梵鐘を略奪したものの、海に浮かべて運搬するその途中に、
運ばれるのを嫌がる梵鐘が、自ら海に飛び込んだという伝説があります。
その様な事から、院号が変更されたのでは?
・・・そんな推測も成り立つわけです。
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極彩色の仁王さまが立つ山門は、明治の廃藩置県に伴って、取り壊された
お城から移築されたもののようです。
奥にある釣り鐘は、自ら海に身を投げた、あの梵鐘か!?

・・・そんな期待もあって確認したところ、昭和五十二年に鋳造された、
新しいものでした。
しかし、試しに杉本さんが撞くと、その音色、そして余韻は素晴らしく、
鳴った瞬間に、小鳥達のさえずりも盛んになりました。


近年の釣り鐘の色に感動する事はないこうゆうさんも、この鐘の音色には
シビレた様子です

***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
農作業に精を出す農民と、庄屋の孫兵衛さんが話をしています。
日照り続きで作物が採れないから、年貢の負担が重い事。

五年に一度の、用水池の修繕工事の当番の事。
農民達の苦しい生活を目の当たりにしている孫兵衛さん、工事の前の夜に
彼等のために宴を催すと共に、何やら一計を案じた様子で、
「明日の工事には、竹筒にお粥を入れて来るように。

・・・と、皆に言い伝えます。
明けて、工事の当日の、昼の休憩。
隣の地区の人夫たちは、固い握り飯を頬張っています。
一方、孫兵衛さんの家で御馳走になった農民たちは、不審に思いながらも
言いつけをきちんと守り、昼食に竹筒のお粥をすすっていました。
そんな様子を見た、代官所の役人。
フラフラの農民たちを見て、竹筒に入っているのは酒なのではないかと、
庄屋の孫兵衛さんを厳しく追及します。
そこで、孫兵衛さん。
日照り続きで作物も出来ず、お粥で空腹を紛らわせている事を告げます。
気の毒に思った役人。
その様子をお殿さまに報告したところ、その年の年貢を軽くするお達しが
あったそうです。
第五十四番札所、延命寺の境内には、享保の大飢饉から農民たちを救った
越智孫兵衛さんのお墓が、ひっそりと佇んでいます。
***********
お参りを修めて駐車場へ戻った一行は、そこでも、釣り鐘を目にします

1704年に鋳造されたという、有形文化財の釣り鐘。
年代から判断して、長曽我部軍が攻め入った後に造られたものですから、
やはりこれも、海に沈んだという、あの鐘とは別物のようです。
しかし第二次大戦中、軍部によって、全国の寺院に金属類を供出するよう
命令があったはずですが、お寺の縁起などが詳しく刻まれたこの梵鐘を、
危険を顧みず、守った人たちがいたわけです。
苦難の時代に、一番大事なものを守り通す、尊い姿勢。
言葉にするのは簡単ですが、実践となると、本当に困難な事でしょう。
そんな先人たちの御苦労や献身があったからこそ、現代に生きる我々が、
今ここで、その貴重な品々を味わう事が出来るのです。
***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!

今回のお参りは第五十三番札所、須賀山・円明寺です。
町中の平地にある、こちらのお寺。
近隣の方々が、自転車などで気軽にお参り出来るような親しみやすさと
お遍路さんが訪れる、道場としての厳粛な雰囲気が同居する札所です。
***********
前回では、『三の門』などといった、門の数え方が話題になりましたが、
『人』のいらっしゃる『二の門』を、『人』+『二』=『仁』という事で
『仁王門』とした、という説もあるそうです。
こちらの仁王門は『八脚門』という、八本の柱で建てられたものですが、
そこをくぐって境内に入ると、見えて来るのが中門。
これは『楼門』と言い、上に建物が乗っている、二階建て形式の事です。
因みに、この楼門に梵鐘がつけば、『鐘楼門』
となるわけです。
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
札所へお参りする事を『打つ』と表現する事、ごんたは知らない様です。
お参りの証としての納め札。
現代は、紙製のものを箱に納めるのが一般的となっていますが、かつては
木製の札を建物などに打ち付けていたそうです。
そんな昔の風習から、お参りを修める事を、いつの頃からか、『打つ』と
表現するようになったと考えられています。
さて、そんな話をしていたら、外国からの参拝者が、ごんたに向かって、
何か話し掛けてきました
「お寺はたくさんあるが、どれが本当の仏さまか?」
「日本では、仏教徒もクリスマスを楽しみ、新年には神社へ初詣に行く。
理解出来ない。」
この質問、ごんたでは太刀打ち出来ず
、たけやんにタッチ交代。
「日本には『八百万の神々』という考えがあって、ありとあらゆる場所に
神が宿っている。キリストも、そんな神様の中の一人。神様の誕生を祝う
クリスマス、素晴らしい風習。どんな悪ガキも『いい子にしていないと、
プレゼントは貰えない』・・・教育の場でも役立っています。」
更に続けるたけやん。
「神様ならば、素晴らしい智慧をお持ちのはず。力ずくで物を奪ったり、
他所の文化を壊すようなマネは、もう止めにすべきじゃないですか?」
・・・ごんたをおちょくるつもりだった外国人、逃げてしまいました。
最初から、相手の言う事に反論しようとせず、それを包み込む様な形で、
じっくり対処すれば、喧嘩にならずに済む事を、たけやんは身をもって、
実践して見せてくれたのでした。
ところで、こちらの御本尊の厨子には、慶安3(1650)年に作られたという
日本最古の銅板の納め札が打ち付けられていて、大正13(1924)
年、米国のスタール博士が評価した事で、有名になったそうです。
***********
門を入って左側、お大師堂との間に、石塔とたくさの石柱がありますが、
その中に、参拝の際には是非とも訪れて欲しいスポットがあります。
それは・・・十字架形の『キリシタン灯籠』と『マリア観音』。
キリシタン禁止令の下、弾圧を受けた宣教師とクリスチャン。
そのような時代、誰が、どのような形でキリスト教を信仰していたのかは
明確には伝わっていません。
周囲の目を避けて、ひっそりと目立たぬように。
このキリシタン灯籠とマリア観音の、一見それとは分からぬ微妙な造形に
当時のキリスト教徒の、命を賭けた信仰の姿勢を垣間見る事が出来ます。
***********
最後は、杉本さんのてくてくインタビュー・ひとへんろ。

高知からバスで参拝の、総勢40名の団体。
その中で、参拝者全員の納経帳のお手伝いをしている男性
全員の納経帳・掛け軸などを持って、納経所へ走るというそのお仕事は、
やはり体力勝負の側面が強い、大変な役目。
そのような仕事を行う上での苦労は、参拝者の大事な納経帳や掛け軸を、
雨に濡らさぬ様に気を遣う事だとか。
尚、移動中のバスの車内は、遠足や修学旅行の様な賑やかさだそうです
。
***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
町中の平地にある、こちらのお寺。
近隣の方々が、自転車などで気軽にお参り出来るような親しみやすさと

お遍路さんが訪れる、道場としての厳粛な雰囲気が同居する札所です。
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前回では、『三の門』などといった、門の数え方が話題になりましたが、
『人』のいらっしゃる『二の門』を、『人』+『二』=『仁』という事で
『仁王門』とした、という説もあるそうです。
こちらの仁王門は『八脚門』という、八本の柱で建てられたものですが、
そこをくぐって境内に入ると、見えて来るのが中門。
これは『楼門』と言い、上に建物が乗っている、二階建て形式の事です。
因みに、この楼門に梵鐘がつけば、『鐘楼門』

***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
札所へお参りする事を『打つ』と表現する事、ごんたは知らない様です。
お参りの証としての納め札。
現代は、紙製のものを箱に納めるのが一般的となっていますが、かつては
木製の札を建物などに打ち付けていたそうです。
そんな昔の風習から、お参りを修める事を、いつの頃からか、『打つ』と
表現するようになったと考えられています。
さて、そんな話をしていたら、外国からの参拝者が、ごんたに向かって、
何か話し掛けてきました

「お寺はたくさんあるが、どれが本当の仏さまか?」
「日本では、仏教徒もクリスマスを楽しみ、新年には神社へ初詣に行く。
理解出来ない。」
この質問、ごんたでは太刀打ち出来ず

「日本には『八百万の神々』という考えがあって、ありとあらゆる場所に
神が宿っている。キリストも、そんな神様の中の一人。神様の誕生を祝う
クリスマス、素晴らしい風習。どんな悪ガキも『いい子にしていないと、
プレゼントは貰えない』・・・教育の場でも役立っています。」
更に続けるたけやん。
「神様ならば、素晴らしい智慧をお持ちのはず。力ずくで物を奪ったり、
他所の文化を壊すようなマネは、もう止めにすべきじゃないですか?」
・・・ごんたをおちょくるつもりだった外国人、逃げてしまいました。
最初から、相手の言う事に反論しようとせず、それを包み込む様な形で、
じっくり対処すれば、喧嘩にならずに済む事を、たけやんは身をもって、
実践して見せてくれたのでした。
ところで、こちらの御本尊の厨子には、慶安3(1650)年に作られたという
日本最古の銅板の納め札が打ち付けられていて、大正13(1924)
年、米国のスタール博士が評価した事で、有名になったそうです。
***********
門を入って左側、お大師堂との間に、石塔とたくさの石柱がありますが、
その中に、参拝の際には是非とも訪れて欲しいスポットがあります。
それは・・・十字架形の『キリシタン灯籠』と『マリア観音』。
キリシタン禁止令の下、弾圧を受けた宣教師とクリスチャン。
そのような時代、誰が、どのような形でキリスト教を信仰していたのかは
明確には伝わっていません。
周囲の目を避けて、ひっそりと目立たぬように。
このキリシタン灯籠とマリア観音の、一見それとは分からぬ微妙な造形に
当時のキリスト教徒の、命を賭けた信仰の姿勢を垣間見る事が出来ます。
***********
最後は、杉本さんのてくてくインタビュー・ひとへんろ。


高知からバスで参拝の、総勢40名の団体。
その中で、参拝者全員の納経帳のお手伝いをしている男性

全員の納経帳・掛け軸などを持って、納経所へ走るというそのお仕事は、
やはり体力勝負の側面が強い、大変な役目。
そのような仕事を行う上での苦労は、参拝者の大事な納経帳や掛け軸を、
雨に濡らさぬ様に気を遣う事だとか。
尚、移動中のバスの車内は、遠足や修学旅行の様な賑やかさだそうです

***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
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今回のお参りは第五十二番札所、瀧雲山・太山寺です。
駐車場が数カ所あるこちらでは、車を停める場所によって、修行の軽重を
選ぶ事が出来ます
因みに、一行が駐車したのは、山門から最も遠い駐車場。
ほんの数百メートルの距離ですが、急な坂もあって、足腰にかかる負担は
かなりのものです



***********
前回の札所が町中の賑やかな場所だったのに対し、こちらは山の中。
広大な敷地内には民家もあり、信者さんたちが皆で助け合いながら支え、
栄えて来たお寺である事が分かります。
境内の諸堂はそれぞれ、国宝など、文化財的にも価値ある建物ばかりで、
散策して回るだけでも、半日以上はかかりそうです。
***********
息を切らせながら到着した、威風堂々とした山門は、実は『三の門』。
そこから考えると、建立当時はいかに栄えていたたかが想像出来ます。
ここで杉本さん、『一の門・二の門・三の門』という門の数え方について
こうゆうさんに質問


回答は・・・
参道から本堂までの、建っている順番。
並列で配置されていても、皇族の方がくぐる門、一般の方用の門という
使い分けがされている場合、『表門・裏門』等という呼び名で区別。
これらの呼び名は、お寺によって様々です。
尚、こちらの三の門。
下から見上げると立派な印象でしたが、その場所まで到着して見てみると
離れて観ていた時の迫力は、少し薄らぐ感じです。
これは、これから向かう本堂へと気持ちを入れ替えねばなりませんので、
門の強い印象を捨ててもらう事を計算して、設計されているのでしょう。
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
ヤマシロ屋の美しい奥方・おジュリ
と、出入りの油屋・ロミゾウ
。
人の道に外れた事と知りつつ、互いに惹かれ合う二人。
人目を忍んで、共にお遍路へと旅立ちます。
お大師さまの分身である青竹の金剛杖を、遍路宿の玄関口に置いたままで
中へ入る二人の姿を見た、ある僧侶。
彼等が、信心からの遍路旅でない事を見抜き、問い質します。
二人、驚いて杖をとろうとすると、捻れ、絡み合っている青竹。
恐ろしさから不義密通である事を告白すると、その僧侶は助言します。
「心を改め、別々にお遍路を巡れば、罪は許される。」
僧侶の言葉に従い、別々に四国を回った二人。
お大師さまのお陰があるならば、根がついて、茂り、栄えるであろうと、
後の戒めとして、捻れた青竹を庭に差したそうです。
そんな事から、青竹は以来、金剛杖として使われなくなったとの事です。
***********
本堂の奥には『夢殿』。
法隆寺の、あの建物の再現で、聖徳太子が祀られています。
聖徳太子といえば、学問の神様。
シーズンには、多くの受験生がお参りに訪れるそうです。
また、聖徳太子は大工の神様でもあります。
千三百年という時を経て、今も当時の姿を保って我々の前に立ち続ける、
世界最古の木造建築物、法隆寺。
優れた建築技術をもって、そんな世界に誇る建造物を遺した聖徳太子が、
大工さんが崇め、尊敬するのは、ごく自然な事と言えるかもしれません。
***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
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駐車場が数カ所あるこちらでは、車を停める場所によって、修行の軽重を
選ぶ事が出来ます

因みに、一行が駐車したのは、山門から最も遠い駐車場。
ほんの数百メートルの距離ですが、急な坂もあって、足腰にかかる負担は
かなりのものです




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前回の札所が町中の賑やかな場所だったのに対し、こちらは山の中。
広大な敷地内には民家もあり、信者さんたちが皆で助け合いながら支え、
栄えて来たお寺である事が分かります。
境内の諸堂はそれぞれ、国宝など、文化財的にも価値ある建物ばかりで、
散策して回るだけでも、半日以上はかかりそうです。
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息を切らせながら到着した、威風堂々とした山門は、実は『三の門』。
そこから考えると、建立当時はいかに栄えていたたかが想像出来ます。
ここで杉本さん、『一の門・二の門・三の門』という門の数え方について
こうゆうさんに質問






使い分けがされている場合、『表門・裏門』等という呼び名で区別。
これらの呼び名は、お寺によって様々です。
尚、こちらの三の門。
下から見上げると立派な印象でしたが、その場所まで到着して見てみると
離れて観ていた時の迫力は、少し薄らぐ感じです。
これは、これから向かう本堂へと気持ちを入れ替えねばなりませんので、
門の強い印象を捨ててもらう事を計算して、設計されているのでしょう。
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
ヤマシロ屋の美しい奥方・おジュリ


人の道に外れた事と知りつつ、互いに惹かれ合う二人。
人目を忍んで、共にお遍路へと旅立ちます。
お大師さまの分身である青竹の金剛杖を、遍路宿の玄関口に置いたままで
中へ入る二人の姿を見た、ある僧侶。
彼等が、信心からの遍路旅でない事を見抜き、問い質します。
二人、驚いて杖をとろうとすると、捻れ、絡み合っている青竹。
恐ろしさから不義密通である事を告白すると、その僧侶は助言します。
「心を改め、別々にお遍路を巡れば、罪は許される。」
僧侶の言葉に従い、別々に四国を回った二人。
お大師さまのお陰があるならば、根がついて、茂り、栄えるであろうと、
後の戒めとして、捻れた青竹を庭に差したそうです。
そんな事から、青竹は以来、金剛杖として使われなくなったとの事です。
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本堂の奥には『夢殿』。
法隆寺の、あの建物の再現で、聖徳太子が祀られています。
聖徳太子といえば、学問の神様。
シーズンには、多くの受験生がお参りに訪れるそうです。
また、聖徳太子は大工の神様でもあります。
千三百年という時を経て、今も当時の姿を保って我々の前に立ち続ける、
世界最古の木造建築物、法隆寺。
優れた建築技術をもって、そんな世界に誇る建造物を遺した聖徳太子が、
大工さんが崇め、尊敬するのは、ごく自然な事と言えるかもしれません。
***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!

今回のお参りは第五十一番札所、熊野山・石手寺です。
町中にあるこちらのお寺。
行き交う車も多く、山門の周りにはたくさんの土産物屋さんがあります。
道後温泉が近い事もあって、参拝者のほか、湯治客も多く訪れるために、
いつも大変な賑わいです
***********
ここは、12番・焼山寺の回に触れた『衛門三郎伝説』がクラ
イマックスを迎える場所です。
12番の記事はコチラ → http://kikuhenro.blog.shinobi.jp/Entry/47/
それまでに犯した悪行の数々を反省した衛門三郎、生まれ変わったならば
今度は国司として、人々のために働きたいとの望みを抱き、息絶えます。
最期を看取った空海さま、『衛門三郎再来』と書いた石をその手に握らせ
葬ります。
翌年、伊予の国の領主に男の子が生まれましたが、手を固く握ったまま、
開こうとしません。
そこで、お坊さんが祈願したところ、その子の手から出て来たのは・・・
『衛門三郎再来』の文字が記された、1つの石だったそうです。
石が納められたお寺は安養寺と称していましたが、その伝説に基づいて、
『石手寺』に改められました。
***********
近くに寄ると気付きにくいのですが、仁王さまが両脇を固めている山門は
かなりの大きさ。
この山門(仁王門)、国宝だそうですので、千社札も貼
られていませんし、
大草鞋も毎年作り替えられており、湿気でだらしなく垂れ下がるという、
見映えの悪さを防いでいます。
また、こちらは子授け・安産のお寺としても知られ、お守りの石を頂き、
願いが成就したなら、その石を納めるという風習があるそうです。
多くの人に愛され、信仰を集めるこちらのお寺。
あるガイドブックには、『香煙絶える事なし』と記されています。
***********
さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
宝物館で、お寺の名前の由来である『衛門三郎再来』の石を見学して来た
ごんた。
たけやんから、現在は『石手寺』と呼ばれているこちらのお寺が、以前は
『安養寺』という名前だった、という事を聞いて、
「お大師さまの頃は『51番札所・安養寺』だったんか
」
・・・という質問。
勿論、お大師さまの時代には、お遍路の風習はまだありませんでしたし、
当然ながら、札所もありませんでした。
お遍路の始まりについては、諸説あります。
お大師さまの辿られた足跡や縁のある場所が、後世になって、札所として
定められた、と言う話もありますし、その一方で、お大師さまに会うため
衛門三郎の歩いた道程が起源、とも言われています。
そんな衛門三郎と共に葬られ、後にこの地の領主である河野家の嫡男が、
その手に握って生まれて来たという、『衛門三郎再来』と書かれた石。
大きさにして一寸八分・・・およそ5cm。
赤ん坊が握るにしては、少々大き過ぎるようにも感じます。
でも、その石にまつわる物語には、智慧や戒め、信仰の大切さなど・・・
仏教の大事な要素が、たくさん散りばめられています。
***********
石畳の参道の両脇には、たくさんの土産物屋さんが立ち並んでいます。
米裕さんと杉本さんは、石手名物『焼き餅』を買い求めました
餅が『魂』であるのに対し、中身の餡は『徳』を表わすそうです。
昔、小豆や砂糖は貴重品だったという事と関係がありそうです。
***********
石手寺宝物館へ入るには入館料が必要ですが、お参りとして訪れる方には
お接待として入れてもらえるそうです。
こちらのお寺は、純粋にお参りをする人と、観光目的の人が混じり合って
独特の雑多な雰囲気があります。
ただ、お遍路は修行ですので、その様な浮かれた空気に流される事なく、
自分のペースを乱さぬ様に心掛ける事が大切です
***********
・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
町中にあるこちらのお寺。
行き交う車も多く、山門の周りにはたくさんの土産物屋さんがあります。
道後温泉が近い事もあって、参拝者のほか、湯治客も多く訪れるために、
いつも大変な賑わいです

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ここは、12番・焼山寺の回に触れた『衛門三郎伝説』がクラ
イマックスを迎える場所です。
12番の記事はコチラ → http://kikuhenro.blog.shinobi.jp/Entry/47/
それまでに犯した悪行の数々を反省した衛門三郎、生まれ変わったならば
今度は国司として、人々のために働きたいとの望みを抱き、息絶えます。
最期を看取った空海さま、『衛門三郎再来』と書いた石をその手に握らせ
葬ります。
翌年、伊予の国の領主に男の子が生まれましたが、手を固く握ったまま、
開こうとしません。
そこで、お坊さんが祈願したところ、その子の手から出て来たのは・・・
『衛門三郎再来』の文字が記された、1つの石だったそうです。
石が納められたお寺は安養寺と称していましたが、その伝説に基づいて、
『石手寺』に改められました。
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近くに寄ると気付きにくいのですが、仁王さまが両脇を固めている山門は
かなりの大きさ。
この山門(仁王門)、国宝だそうですので、千社札も貼
られていませんし、
大草鞋も毎年作り替えられており、湿気でだらしなく垂れ下がるという、
見映えの悪さを防いでいます。
また、こちらは子授け・安産のお寺としても知られ、お守りの石を頂き、
願いが成就したなら、その石を納めるという風習があるそうです。
多くの人に愛され、信仰を集めるこちらのお寺。
あるガイドブックには、『香煙絶える事なし』と記されています。
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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。
宝物館で、お寺の名前の由来である『衛門三郎再来』の石を見学して来た
ごんた。
たけやんから、現在は『石手寺』と呼ばれているこちらのお寺が、以前は
『安養寺』という名前だった、という事を聞いて、
「お大師さまの頃は『51番札所・安養寺』だったんか

・・・という質問。
勿論、お大師さまの時代には、お遍路の風習はまだありませんでしたし、
当然ながら、札所もありませんでした。
お遍路の始まりについては、諸説あります。
お大師さまの辿られた足跡や縁のある場所が、後世になって、札所として
定められた、と言う話もありますし、その一方で、お大師さまに会うため
衛門三郎の歩いた道程が起源、とも言われています。
そんな衛門三郎と共に葬られ、後にこの地の領主である河野家の嫡男が、
その手に握って生まれて来たという、『衛門三郎再来』と書かれた石。
大きさにして一寸八分・・・およそ5cm。
赤ん坊が握るにしては、少々大き過ぎるようにも感じます。
でも、その石にまつわる物語には、智慧や戒め、信仰の大切さなど・・・
仏教の大事な要素が、たくさん散りばめられています。
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石畳の参道の両脇には、たくさんの土産物屋さんが立ち並んでいます。
米裕さんと杉本さんは、石手名物『焼き餅』を買い求めました

餅が『魂』であるのに対し、中身の餡は『徳』を表わすそうです。
昔、小豆や砂糖は貴重品だったという事と関係がありそうです。
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石手寺宝物館へ入るには入館料が必要ですが、お参りとして訪れる方には
お接待として入れてもらえるそうです。
こちらのお寺は、純粋にお参りをする人と、観光目的の人が混じり合って
独特の雑多な雰囲気があります。
ただ、お遍路は修行ですので、その様な浮かれた空気に流される事なく、
自分のペースを乱さぬ様に心掛ける事が大切です

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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。
詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
