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2024/04/26 22:30 |
【50番】東山・繁多寺《放送内容》
今回のお参りは第五十番札所、東山・繁多寺です。

世間的には、『数にこだわるな』と言われる場面もよくあります。

しかし、やはり『50番』という、節目の数字。
『ここまでやって来た』という充実感と共に、結願に向けて決意を新たに
心を奮い立たせるものがあります。

四国遍路は、各札所に番号をふり、順を追って参拝する仕組みにした事で
修行の段階が分かると同時に、巡礼者の目標・動機づけにもなっており、
それが、今日まで栄えている理由なのかもしれません。

***********

なだらかな坂を上った、住宅地の中に位置するこちらのお寺。
眼下には松山の市街地が広がり、すばらしい眺めです。

天平時代、行基さまが開かれた当時、天皇より多くの旗を賜った事から、
元々は『旗多寺』という寺号だったのですが、時代の移り変わりに伴い、
その音と、繁栄を意味する『繁』の文字が使われる様になりました。

その一方、地元では『畑寺』と呼ばれ、親しまれているこちら。
畑とは、神仏への供物を作る場所でもあります。

いずれの呼び名も、経済の流れを表わした、深い意味が含まれています。
(因みに『経済』という言葉も、仏教用語です。)

***********

こちらのお寺は、素晴らしい音色を聴かせてくれる釣り鐘が有名ですが
力を込めて、大きな音を響かせるのが正しい鐘の撞き方か、と問われれば
必ずしも、そうとは言えません。

お寺は修行の場、
他の参拝者もおり、また鐘を撞く本人も、修行をしている身です。

周囲への配慮を怠らず、他の参拝者の邪魔にならぬ様に、心を配りながら
美しい音を響かせるのが、修行者としてのあるべき姿勢でしょう。

この釣り鐘、三百年前に法雲律師が、貧富の隔てなく民衆から浄財を募り
皆の願いを刻み込んで、作り上げたものです。

『貧富の隔てなく』と聞くと、現代人からすれば、富める者も貧しい者も
同じ額の財貨を提供した、と捉えたくなりますが、そうではありません。

富める者は豊かなりに、また貧しい者は貧しいなりに、それぞれの立場で
出来うる限りの力を尽くして、皆の幸福を祈った事を意味しています。

浄財、寄付、寄進・・・
これらの意味を突き詰めると、『喜捨』という言葉になります。


「『喜んで捨てる』事など、出来るものか!」

・・・そんなことを言う人もいます。

しかし考えてみれば、自分の子や孫、身内に対して、何の見返りも求めず
色々な物を買ったり、与えたりという事は、誰もが行っています。

ならば、もう少し範囲を広げて、自分が生きている世間や社会のためにも
同じ事は出来るのではないでしょうか?

***********

さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。

日照り続きで、水は枯れ、作物も採れない
弱い者から順番に、バタバタと倒れて行く村人達。

・・・そんな有様の毎日を嘆くキンゾウとトヨゾウの所へ、村の御住職が
やって来ます。

「『先ず自分が助かりたい』という貪りの心を捨て、皆が共に助かって、
ニコニコと穏やかに暮らせる事を考えよ。」


そう言い遺した覚了住職。
掘った穴に籠り、命懸けの雨乞いを始めます。

噂は村人達に広まり、『自分のため』ではなく、『皆のため』の思いで、
全員が、一心に拝み始めました

覚了住職の読経の声が途絶えて、21日後。
一天俄にかき曇り、雷鳴が轟き、やがて雨が降り始めました。
尊い覚了住職の命と引き換えに、村人達は助かったのです

・・・しかし、彼等に笑顔はありませんでした

自分達の身勝手で、偉いお坊さんを亡くしてしまった村人達。

「まず先に、人様から。」
・・・村人達は、譲り合いの心を大切にする事を誓い合いました。

繁多寺には、村人から覚了住職への感謝の気持ちを表わした『聖人塚』
残されています。

***********

大師堂の中には、空海さまの座像が安置されていますが、その大師堂と、
本堂の間には、修行大師像。

「見守って下さっている。」という事を体感出来ます。

ありそうでありながら、他のお寺では見かけない配置。
繁多寺へお参りの際には、足を止めて、味わって頂きたいと思います

***********

・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。

詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!
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2009/05/03 20:44 | Comments(2) | TrackBack() | 放送内容

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コメント

偶然検索で拾って拝聴しました。松山は今年も水不足で断水の危機にあります。この雨乞いの話を子供の時(30年以上前)に聞いて、「雨乞いに命を捧げて何になるの?」と思ったのを思い出しました。この小噺を聞いてこれこそ本当の住職の「心裏」と思い甚く感動し目から鱗が落ちた気がしました。「人の為」とは心に訴える事でも為し得られる。素晴らしい創作小噺、米裕さんありがとうございました。これからも頑張ってください。
posted by しんごん at 2009/06/17 17:00 [ コメントを修正する ]
しんごん さま

素晴らしいコメント。頭に乗らせていただきます。お札所近辺のお話を掘り返す作業は、とても勉強になっております。これからもお付き合い下さいませ。
posted by 米裕 URL at 2009/08/13 07:10 [ コメントを修正する ]

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