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2024/05/06 16:53 |
【80番】白牛山・国分寺《放送内容》
今回のお参りは第八十番札所、白牛山・国分寺です。

奈良時代、聖武天皇の勅願によって全国に建立された国分寺
その目的は、仏法で各地を平定し、庶民の健やかな生活を願っての事。

人々が健康であれば、地域は必然的に栄えます
ですから、全国各地の国分寺の御本尊は、無病息災に特に力を発揮される
薬師如来さまである場合が多いのです。

(但し、こちらの国分寺の御本尊は、十一面観音さまです。)

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国分寺とは『護国』の寺。

言葉のイメージから、戦争を思い浮かべがちですが、護国とは文字通り、
国を護ること。

それは、敵と戦って国土を守るという意味ではなく、人々を元気にして、
地域を発展させる事です。

そういった目的のため、仏さまが最も力を発揮出来るよう考えられたのが
お寺の建物の配置・・・伽藍配置です。

お寺の建物の事は、お堂とか社(やしろ)と言います。
それが多く会するから『社会』

昔のお寺の広大な境内には、医者や薬局など社会生活があって、それらが
お経によって利益(りやく)が廻る事を『経済』

それら全てがお経によって営まれているから『経営』

現代生活に溶け込んでいる言葉。
実は、仏教用語からきています。

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建物や部屋などの配置。

お寺なら、本堂を中心に伽藍配置が決まります。
一般家庭ならば、まず神仏をお祀りする場所を決めてから、周囲の部屋の
配置を決定。

それが基本であり、最も『落ち着く』形です。

スケールの大きな、歴史あるこちらのお寺。
お参りさせて頂いた時、『自然さ』『安心』を感じるのは、そういった
基本が守り継がれているからこそでしょう。

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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。

四国八十八箇所の八十番目、最後の国分寺です。

そんな事もあって、しみじみとした思いで、納め札をじっくり眺めながら
お参りしていたごんた、ある事に気付きました。

参拝者は、納め札に自分の願い事を書いてから納めますが、よく見れば、
『天下泰平』『家内安全』と、既に2つもの願いが書かれているのです。

天下泰平とは、世の中全ての人が御蔭を受けますように、との願い。
家内安全とは、家族全員が御蔭を受けますように、との事。

そこには、自身を含む周囲全ての幸せを願う気持ちが込められています。

自分の願いだけに執着するのでなく、全ての人を思いやる事。
それが鎮護国家、この国分寺が建立された目的です。

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御本尊の十一面観音さま。

そのお姿は、全てを見渡し、あらゆる手を尽くして、この国を守るという
お働きを示しています。

歴史ある境内には、小鳥のさえずりや、蛙などの声が心地よく響き渡り、
町中にありながら、懐の深さを感じさせる空間を形作っています。

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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。

詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!

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2010/08/07 17:30 | Comments(0) | TrackBack() | 放送内容
【79番】金華山・天皇寺《放送内容》
今回のお参りは第七十九番札所、金華山・天皇寺です。

町中の平地に位置するこちら、駐車場に立つと、眼に飛び込んで来るのが
朱塗りの立派な鳥居

「寺ではなくて、神社?」と思ってしまいがちですが、この放送の中でも
再三言われている通り、明治の廃仏毀釈よりも前の時代、お寺と神社とは
夫婦のような関係だったのです

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こちらのお寺、開基は行基菩薩さまで、後にこの地を訪れた空海さまが、
弥蘇場の泉で得た霊木に十一面観音さまを刻み、安置されました。

現在、こちらの院号は高照院ですが、当時は『摩尼珠院』と称しました。

この摩尼珠、宝珠とも言って、仏(円)と人間の世界(四角)の融合を表現した
尊い形で、仏さまの中でも、特に宝珠を大切にされる、観音さまに因んだ
お寺の名前だったのです

尚、空海さまは、ここに88の閼伽水を集めて秘法を修された
そうですが、
この『閼伽水』とは、ある決められた時間帯に、作法に則って集められた
修行には欠かせない水の事。

現代社会は24時間体勢で、どんな時でも同じ様な活動が行わ
れています

しかし、真言密教では時刻・時間帯というものをとても大切に考えていて
その時ならではの空気、そこで成すべき事が、非常に重要になります。

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毎年8月、こちらでは秘仏の御開帳が行われます。

『いつでも観られる』のと『年に一度しか観る事が出来ない』・・・
同じ仏さまですから功徳は同じですが、何となく『有難味』が違う。

個人各々、信仰の深浅の差はありますが、その限られた機縁に触れる事で
「よくぞこの一年間、無事で…」と、自分の価値を再確認出来るのです。

1年に一度、中には33年に一度しかお会い出来ない仏さまもいます。
その数少ない機会を、自らの『生きるしおり』にするのも良いでしょう

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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。

『テンノウジ』と聞いて、大阪の環状線を連想したごんた
でも、あちらは『四天王寺』に因んだ地名で、ここは讃岐の『天皇寺』

ならば、天皇陛下と関係が?・・・と言われれば、その通り。
第75代・崇徳天皇に所縁のあるお寺です。

『悲運の帝』とも呼ばれる、崇徳天皇。
朝廷内の権力闘争で失脚、保元の乱で敗れ、讃岐へ流刑となりました

讃岐の地で仏教に帰依、戦死者の供養と反省の日々を送るも、その思いは
当時の朝廷には伝わらず、46歳で崩御されました。

崇徳院の死後、二条天皇が22歳の若さで亡くなったのに加え、京の都では
大火事や飢饉が相次いだため、これらの災厄は『崇徳院の怨霊』の仕業と
考えられていたそうです

一方、讃岐の地では、『四国の守り神』として崇められている崇徳院。

怨霊として忌み嫌われ、皆に恐れられる存在でも、礼節をもって接すれば
福の神に転ずる・・・そんな事を示しているのかもしれません。

事実、皇室は現在も、事ある毎に讃岐の地を訪れて崇徳院の怨霊を諌め、
災い無きよう、祀り続けているそうです。

何事に対しても礼節をもって接する・・・とても重要な事です

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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。

詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!

2010/07/17 17:30 | Comments(0) | TrackBack() | 放送内容
【78番】仏光山・郷照寺《放送内容》
今回のお参りは第七十八番札所、仏光山・郷照寺です。

麓にある山門から細い道を上り、山の中腹にある駐車場までやって来ると
あとは石段を少し上るだけで、歴史を感じさせる大伽藍へ辿り着きます。

山の上からは瀬戸内海を一望でき、瀬戸大橋の伸びる対岸は一行の本拠、
FMくらしきのある倉敷市です。

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こちらのお寺、開基は行基菩薩さまですが、七百年代の開山当初の寺号は
道場寺といいました。

道場という言葉、現代は『人間が修行する場所』との意味で使われますが
本来は『仏さまのお働きをお手伝いさせて頂く場所』の事だそうです。

尚、こちらは珍しく、真言宗であると同時に、時宗のお寺でもあります。
これは時宗の開祖・一遍上人が、踊り念仏の道場とした事に由来します。

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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。

鎌倉期になり一遍上人によって復興された事から、この郷照寺の宗派は、
真言宗時宗

・・・という話を、たけやんから聞いたごんた。
そもそも『宗派』って何?という疑問が湧いて来たようです。

新しい教えを説く人が出現すると、その教えを支持する人が増えて行き、
やがてそういった人々の共同体が出来上がります。

その教えを信ずる人々の共同体が『宗派』であり、その教えを説いた人は
『宗祖』として尊敬を集め、崇められる事になります。

ただ、宗祖とされる歴史上の人物が教えを説いたのは、宗派を形作る事が
目的ではありませんでした。

大陸からの伝来以降、長い時間をかけて、日本に広まった仏教

聖徳太子は、朝廷に仕える役人に、生活規範として仏教を説きました。
最澄さまや空海さまの平安仏教は、出家者を対象とする教えです。
そして一遍さまを含む鎌倉期以降は、民衆が対象となりました。

その説かれた時代によって、み教えの伝えられた対象が各々異なるため、
全く違ったものであるかの様に考えられてしまっているのです。

『他宗派を学ぶとバチが当る』などと言われますが、全くの迷信
『皆に勉強されると都合が悪い』一部の人が主張しているに過ぎません。

今や、殆どの日本国民が、普通に読み書きの出来る、恵まれた時代。
教育制度のキチンと整っていなかった当時の、一般大衆向けの教えだけに
留まっている必要はないのです。

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最後は、杉本さんのてくてくインタビュー・ひとへんろ。

今回登場されるのは、兵庫県からいらしたという、歩き遍路の女性。
暑さと汗対策に、頭と首周りにあしらった手拭いがスタイリッシュです

2年ほど前、バスでも八十八箇所を巡ったという、この方。
歩きだと、暖かい声をかけてもらったりと、周囲との交流が出来ることが
魅力だそうです

元々、仏像を観るのが好きで、札所で目にする事の出来る各々の仏さまの
芸術作品としての細やかな造作や、像そのものの発するミステリアスさを
味わいながら巡るのも、楽しみだそうです

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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。

詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!

2010/07/05 11:38 | Comments(0) | TrackBack() | 放送内容
【77番】桑多山・道隆寺《放送内容》
今回のお参りは第七十七番札所、桑多山・道隆寺です。

待ち中の平地に位置するこちらのお寺。
山号から、この土地の主要産業が養蚕だった事は容易に想像出来ますが、
桑の木の根元に光るものがあり、その木を刻んでお薬師さまとしたのが、
お寺の始まりと言われています。

蚕の作り出す繭玉は、白ばかりでなく、中には黄金色のものもあるとか。
だから、桑の根元に光っていた物の正体は、黄金色の繭玉だったのでは?
・・・というのが、蚕を飼育した経験のあるこうゆうさんの推測です。

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古来より、体の不具合の中でも、特に『眼』を重視した仏教。
み教えが日本に伝来して間もない頃の、民衆の生活のレベルを考えると、
『光』というものは、今以上に貴重と考えられていたでしょう。

だからこそ、桑畑の暗がりに、現代人なら見過ごしてしまうかもしれない
小さく仄かな光を見つけて、眼病に功徳のあるというお薬師さまを刻み、
そこをお寺にしたというのは、ごく自然な事だったのかもしれません

***********

大草鞋のある立派な山門をくぐり、立派な円柱を見ながら境内に進むと、
柴燈護摩を修する場所があります。

こちらは真言宗醍醐派に属しており、修験道と深いつながりのあるお寺で
屋外で護摩法要を行う事があるのでしょう

この様な一角は、立入禁止などの特別な措置がなされていないとしても、
神聖な場所ですので、足を踏み入れてはなりません

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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。

75番札所の開基は佐伯善通だから、善通寺
76番は和気道善だから、改名前の寺号が道善寺

そんな訳で、この77番札所・道隆寺も、人名に由来するのでは?
・・・というごんたの推測ですが、その通り
1300年ほど前の奈良時代の豪族、和気道隆が開基です。

その道隆の孫・朝祐は、祖父の刻んだ小さな薬師如来像を、人々のために
更に役立てたいと、空海さまに相談したところ、お大師さま自ら
2尺5寸の大きなお薬師さまを刻まれ、元の像を胎内仏として納めました。

そして朝祐は、財宝を喜捨して出家、事が祖父の道隆から起こった事から
開基を道隆として道隆寺を建立、自身は2代目住職となり、お大師さまを
供養したそうです。

「生きているお大師さまを供養?」


たけやんの言う『供養』という言葉の使い方がシックリこないごんた。

一般的には、供養とは『供えて養う』という意味に捉えられがちですが、
『供える事で自らも養われる』
『供えさせて頂き、その功徳を巡らせる』

というのが本当の意味です。

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目の不自由な方を指す差別用語という事で、今は使う事が出来ませんが、
仏教における『眼が暗い』の意味するところとは、『心の眼が暗い』事、
即ち『悟りの心が開けていない』事を指します。

そんな『眼を開く』という御本尊のお働きが、眼病の人々の信仰を集め、
いつの頃からか『目治し薬師』の別名でも親しまれています

そして、そういった方々の『眼が開ける』、『治る』時間帯は、何故か、
明け方が多いそうです。

お薬師さまの正式なお名前は『薬師瑠璃光如来』
『瑠璃光』とは、夜明け前の瞬間の空の青さ

・・・そんなところと関係しているのかもしれません。

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今回、五感が研ぎ澄まされる感覚を味わったという杉本さん

本堂では中に入らせて頂いてお参りしましたが、その時に気になったのが
磬子(けいす)という仏具。

これはスイカ位のサイズのもので、家庭にある『おりん』の巨大版。
良い音色を出すには『叩く』のではなく、『当てる』意識が大事です。

良い音色
耳にした人が、仏さまに思いをはせるための重要な要素です。

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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。

詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!


2010/06/21 12:14 | Comments(2) | TrackBack() | 放送内容
【76番】鶏足山・金倉寺《放送内容》
今回のお参りは第七十六番札所、鶏足山・金倉寺です。

駐車場からそのまま境内に入る事も出来ますが、やはり正式な参拝手順で
山門から入らせて頂きたいもの

迫力ある仁王さまと共に、灯籠と桜の古木が一行を迎えてくれます。

境内へ入ると、歴史を感じさせる壁に、白い線が五本。
これは『寺格』を表すもので、五本は最上級、即ち皇室と関係がある事を
示しています。

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元は『道善寺』と称したこちら。
その意味する所は、前の札所である『善通寺』にヒントがありそうですが
解答は・・・こうゆうさんからの宿題とされました

山門をくぐった左手に大きな楠がありますが、境内の雰囲気はなんとなく
七十五番の善通寺に似ています。

戦国の大変な時代を乗り越えた後、ひょっとしたら善通寺をモデルとして
お寺を復興、整備されたのかもしれません。

特徴的なのが、鐘楼
12本の柱に屋根がのっただけの、非常に簡素な造りですが、その佇まいは
歴史の重みを感じさせてくれます

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さて、皆さんお待ちかね、米裕さんの創作小噺『凸凹同行記』。

『金倉寺』という寺号から、キンキラキンのお寺を想像するごんたですが
勿論、そんなはずはありません。

こちらは、空海さまと同時代に活躍された最澄さまが日本に伝えられた、
天台宗に属するお寺です。

平安仏教の両巨頭であるお二人は、時を同じくして唐に渡られましたが
朝廷の命により、様々な経典を、言わば広く浅く集めた最澄さまに対し、
空海さまは、既に日本に伝わってはいたものの、うまく理解出来なかった
密教を深く学ぶためという、一点集中の目的で海を越えられたのです。

ですから、自ら収集された密教経典に不備がある事を知った最澄さまは、
欠落している部分を補うべく、密教を極めた空海さまへ弟子入りしたり、
御自身の高弟達に空海さまの元で学ばせたりという努力をなさいました。

こちらの金倉寺、讃岐の和気氏によって開かれましたが、智証大師さまの
生誕の地
としても知られています。

この智証大師円珍さまは、空海さまの姪の子と伝えられていて、つまり、
空海さまの一族は、二人ものお大師さまを輩出しているわけです

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四国八十八箇所の大師堂といえば、空海さまをお祀りするのが普通ですが
こちらは智証大師さまの他天台宗の高僧方、更には神変大菩薩さまの像も
安置されています。

神変とは、神(天のカミ)・祗(地のカミ)
を拝む事で必要な雨や日を頂く、
即ち、人が生活するために行う祈祷によって表われる諸々の現象の事で、
自然の大いなる力を、我々は『カミ』として崇めて来たのです。

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境内には『訶利帝堂』という、聞き慣れないお堂がありますが、ここは、
訶利帝母=鬼子母神さまをお祀りしている建物です。

鬼子母神さま、かつては五百人の子をもうけ、他人の子を盗っては食べる
恐ろしい鬼訶利帝母でした。

ある日、村人から相談を受けたお釈迦さま。
一計を案じ、五百人いる彼女の子供の内の一人を隠されました。

子供の姿が見えない事に気付き、半狂乱になって探す訶利帝母でしたが、
そこで彼女は、他人の子を食うという行為が、いかに酷い事かを悟って、
改心し、神となりました。

今では鬼子母神さまは、子と母の守り神、子授けの神として、多くの民の
信仰を集めています


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・・・という訳で、今回のダイジェストはこの辺で。

詳しくは、FMくらしきのOAと、Podcastでチェック!!

2010/06/06 17:13 | Comments(0) | TrackBack() | 放送内容

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